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蒔田と吉良氏

2022年5月23日

吉良上野介義央の出自は三河吉良氏であり、足利将軍家一門の中でもとりわけ高い家格を誇る名門ですが、兄弟の分割相続から始まる内紛によって分裂、庶流は初代奥州管領になるなど南北朝時代に活躍しましたが衰退します。この奥州吉良氏はその後鎌倉公方家に仕えるようになり、その家柄ゆえ別格の扱いを受けて世田谷に土着したので武蔵吉良氏とも呼ばれます。

武蔵吉良氏でもっとも著名な人物は吉良頼康ですが、彼が世田谷から拠点を移して築いたのが蒔田城です。三河吉良氏同様、家格は高かったものの周辺勢力を糾合することができずに戦国大名化はしませんでした。つまり鎌倉公方の滅亡後、複雑怪奇で激変が連続する関東の政治情勢を足利一門でも別格という立場でうまく渡り歩いてきたということでしょう。

頼康の代にはすでに後北条氏が武蔵進出を果たしているので実質その庇護下にあったとみるべきです。頼康の「康」は北条氏康からの一字拝領であろうことは想像に難くありませんし。氏康にとっても吉良氏の家格の高さは関東経略に役立ったのでしょう。実際、諸役を免除されるなど優遇されているので一門あるいは客分扱いだったと思えます。頼康が主要な合戦に参加した記録もないので、私が思うに蒔田という土地柄から里見水軍の来襲に対する予備戦力だったのではないかと。現在より海岸線が2kmほど内陸寄りだったこと、当時湊として機能していた杉田や六浦にも近いという地政学的な見地からです。ただあくまで世田谷が本拠で蒔田は別荘的なものだったとする説もあるのでわかりませんが。

後北条氏の滅亡後もその家格の高さは有利に働いて徳川幕府から高家に任じられ、幕末まで続きます。嫡流の三河吉良氏も高家でしたが「元禄事件」の結果改易され、後に再興されましたが高家に復することはありませんでした。結局家格だけで生き残れた一族ということですかね。蒔田城址の麓にある勝国寺は吉良氏の菩提寺です。

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戦国時代

Posted by hiro