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チーヴァー王座獲得の可能性

私はこれまでエディー・チーヴァーについて多くのページを費やしてきましたが、下した結論は生まれるのが10年遅かったということです。しかし、もう少し運が味方していたらチャンピオンになれる可能性はあったのか?
転機は三つあったと思います。それは

1 1982年にティレル残留
2 88年にウィリアムズ移籍
3 89年にベネトン移籍

です。ここでそれぞれについて考察してみたいと思います。

まず、1については以前の記事でも取り上げましたが、81年ティレルでのチームメイトは気鋭の新人ドライバーであるミケーレ・アルボレートで、チーヴァーは予選決勝とも彼を圧倒してリジェに抜擢されることになります。当時のリジェはチャンピオン争いにも絡む強豪ですから、この移籍は明らかにステップアップで当然の選択と思われます。翌年のマシンが失敗作に終わるなど予想はできなかったでしょう。敢えてティレルに残留していたとすると、その結果は非常に興味深いです。

この時期は急速にターボエンジン化が進んでいたものの、信頼性とレスポンスの問題を解決できずに高速サーキットでは速いがテクニカルな低速コースではNAに分がありました。事実アルボレートはティレル在籍中にラスベガスとデトロイトという市街地コースで勝っています。そう、両方ともチーヴァーの母国GPなんですよね。しかもアルボレート以上に市街地が得意なチーヴァーですから、もし残留していたら勝っていたのは彼なのではないかと… そうなるとアルボレートに先んじてフェラーリに抜擢されていたかもしれません。

唯一気がかりなのはチーヴァーの場合、同じドライバーと続けてコンビを組むと初年度互角であっても二年目では後塵を拝していることなんですよね。アルファロメオでのリカルド・パトレーゼ、アロウズでのデレク・ワーウィックともに初年度は予選で7勝9敗ですが、二年目は5勝11敗と4勝12敗と水をあけられています。これが何を意味するのか? 私の考えでは、熟成が進まずセッティングの決まらないマシンで彼は速く走れてしまったのではないかと思うのです。天才肌のドライバーにはありがちなことですよね。二年目ともなるとそのアドバンテージがなくなって逆転される結果になったのではないかと… だとすると予選で8勝4敗だったアルボレートに対しても同じことが起こらなかったとは言い切れないです。まあ二人とも若かったとはいえアルボレートの方がシュアでステディーですから、アロウズ時代のワーウィックとの関係に近いものになっていたかもしれません。つまり、コンスタントに入賞するのはアルボレートだが表彰台に上るのはチーヴァーみたいな… そうなっていたらどちらが評価を上げていたかも微妙なところではあります。

2については当時ウィリアムズのチームマネージャーだったピーター・ウィンザーが、チーヴァーを非常に高く評価していたことが大きいです。彼は86年にある雑誌のインタビューで、資金面に制約がなければ誰をドライバーとして雇うかという質問に対してアラン・プロストとアルボレートの名前を上げた後、
「F1界には才能ありながら恵まれないヤツがいる。ティエリー・ブーツェン、チーヴァー、ジョナサン・パーマーの三人が特にそうだ。中でもチーヴァー、彼に速いマシンを与えたら間違いなくトップを走れるパフォーマンスを持っている」
と評していました。結局このシートはパトレーゼのものになりますが、ホンダエンジンを失って苦しいシーズンを過ごすことになります。ジャッドエンジンの戦闘力と信頼性の低さに業を煮やしたナイジェル・マンセルの離脱が既定路線とするならば、チーヴァーがモチベーションさえ保っていれば残留してルノーエンジン獲得後の翌年以降飛躍していた可能性は大いにあります。またウィリアムズのコンサバなマシンは、彼のドライビングスタイルに向いていたのではないかとも思います。

3は、ジョニー・ハーバートの怪我からの回復が思わしくなかったという前提条件があります。「ジム・クラークの再来」と言われ、将来を大いに嘱望されていた彼はベネトンと89年の契約を交わしていましたが、直後のF3000レースで両脚複雑骨折の重傷を負います。右足切断の可能性が取り沙汰されるほどでしたから、この時点では翌年のF1デビューはほぼ白紙の状態に戻ってしまったわけです。

そんな中、モンツァでのイタリアGPでチーヴァーがベネトンをテストドライブし、パドックが一時騒然となったのです。これは彼がアルファロメオをドライブしていた時のメインスポンサーがベネトンだったことからの友情出演とされましたが、『GPX』誌でも
「もしハーバートの回復具合が思わしくない場合、チーヴァーはベネトンの切り札になるドライバーではあり得る」
としていました。結果的にハーバートは完治しないまま開幕戦でデビューして4位に入賞し、大物ぶりを見せたものの無理が祟って失速、F3000時代ほどの輝きは取り戻せませんでした。もしチームマネージャーのピーター・コリンズがハーバートの復調に疑念を抱いていたら、アレッサンドロ・ナニーニのチームメイトはチーヴァーだったかもしれません。

やはり最も可能性が高かったのは1でしょうね。とは言えネルソン・ピケ、プロスト、アイルトン・セナといった面々を向こうに回さなければならなかったのですから、公平に考えて王座獲得は難しかったでしょう。それでも10勝くらいはできて然るべき実力はあったと思っています。その才能から考えると歴史に残るリザルトは余りにも寂しいものだと考えます。ウィリアムズやフェラーリをドライブして欲しかったなあ…

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Posted by hiro