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ロンメル vs パットン

1943年2月19日、エルヴィン・ロンメル元帥率いるドイツ・イタリア装甲軍はアトラス山脈西側の連合軍を排除するため攻撃を開始、カセリーヌ峠の戦いです。攻撃の矢面に立たされた米第2軍団は、歴戦のドイツ軍に対して経験と練度の不足を露呈して大損害を受けます。もしも攻撃目標についてロンメルと意見を異にしていたハンス=ユルゲン・フォン・アルニム上級大将の第5装甲軍と共同歩調が取れていたなら、連合軍はアルジェリアに撤退せざるを得なかったかもしれません。意気揚々と北アフリカに上陸してきた米軍の兵士たちは勇戦したものの、各部隊が連携するには離れすぎていたために各個撃破されたわけです。

この失敗を教訓として送り込まれたのがジョージ・パットン中将です。彼は緩んでいた規律を引き締めて北アフリカの米軍を叩き直して来るべきロンメルとの「決闘」に備えますが、3月9日に本国へ召喚されたロンメルが戻ることはなく、両陣営で最も優れた機甲部隊指揮官が直接対決する機会は永遠に失われてしまいました。

ロンメルとパットンには共通点が多いですね。厳格な軍紀の徹底、強気の作戦指導、積極果敢な攻撃姿勢、迅速な機動の重視などです。また上官との軋轢や抗命が多く、猪突猛進と兵站軽視の傾向も見て取れます。これらは二人の性格にもよりますが、その着眼点が常人とは違っていたため上級司令部には理解できなかったということでしょう。兵站軽視は軍事指揮官としてもっとも戒められるべきことですが、総司令官や方面軍司令官と違って前線部隊の軍あるいは軍団規模を率いる長としては、見込める成果とリスクを秤にかけて「いける!」となれば逡巡しない果断さも必要です。北アフリカでのロンメルの戦果は、常に燃料不足と輜重の問題に悩まされながらのものですし、バルジの戦いにおけるバストーニュ救出は、パットンが命令を待たずして第3軍を向けていた英断の結果です。どちらも彼ら以外にはできなかったでしょう。つまり、持てる駒で達成できる最大限の成果をあげるための臨機応変さに富んでいたということです。

似た者同士と言える二人が対決していたら、結果はどうだったでしょう? 残念ながらロンメルにはパットンと互角に渡り合えるだけの戦力を手にすることはできなかったでしょうね。強力な「ティーガー」戦車は僅かしかなく、局地的な防御戦闘では米戦車を粉砕したでしょうが、圧倒的な物量で迫るパットンに抗する術はなかったと思われます。ひょっとしたらパットンは、戦車の集中運用とノルマンディーで見せたような高速機動を掛け合わせてロンメルを包囲殲滅したかもしれません。北アフリカは、二人が五分の状態で相まみえるには遅すぎる戦場だったということです。ただ、ロンメルが北アフリカに派遣されることがなかったとしたら、彼がB軍集団を任されることはなかったはずです。そうなるとノルマンディー上陸作戦以降にその機会が訪れたかもしれません。

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近代

Posted by hiro