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桶狭間後の今川義元 その9

将軍足利義輝は武田信玄に対し矛を収めて恭順するよう再三説得していましたが、すでに足利にとって代わる決意を固めていた信玄は言を左右にするだけで応じません。遂に義輝は武田追討の檄を発するものの、度重なる反幕府の動きを見た諸勢力は新政権に力なしと判断、一時沈静化していた抗争が再燃してもはや制御不能になっていたのです。

元康出陣
義輝が最も頼りにしていた上杉輝虎は腹背に敵を抱えて東海の戦局には何ら寄与できません。これは佐竹や里見も同様でした。機を見るに敏な北条氏康が着々と関東の失地回復に向けて精力的に動いていたからです。また信玄は各地の一向宗徒を扇動して蜂起させ幕府の足元を揺さぶります。しかし本願寺顕如は縁戚である信玄の要請でありながら、松平元康の説得を受け入れて静観を決めます。浄土宗に深く帰依する元康の天下静謐に向けた思いが顕如の心を打ったのです。また一向宗徒の目的は領主の圧政を排することであり、彼らにとって政局は何の関係もありません。結果的に蜂起は各地の敵対関係をさらに複雑化して混乱に拍車をかけます。
牧之原での敗報を受けて義輝は畿内の兵力結集に着手、元康に今川義元救援を命じて松永久秀も副将格として加えます。これまで八面六臂の活躍で負けを知らない元康も、今度の相手は戦国最強とも謳われる信玄です。寡兵で勝てるとは思えません。酒井忠次に命じて尾張・三河からもさらに兵を徴発、大軍の編成に取り掛かります。ここで海路伊勢へ逃れた今川氏真が京へ帰還します。氏真は自らが総大将として遠征軍を率いることを望みますが義輝はこれを却下、京に留め置きます。義輝は氏真の将器に疑問を抱いていたのです。こうして元康は三河に向けて出陣、久秀の大和衆を加えたその軍勢は2万5千に達していました。

信玄の戦略
信玄は掛川城は包囲するにとどめて遠江完全掌握に向け各地に軍勢を派遣するとともに、自らは小笠山に本陣を置いて高天神城との連絡を遮断します。庵原城を開城させた北条氏政は笠原康勝を残して駿東に撤退、綱成も本国に帰還して北条は関東制覇に注力することになります。
信玄は決して急いでいませんでした。掛川城の今川軍は1万に満たないとはいえ、これだけの兵を抱えての籠城となれば糧食が尽きるのも早くなります。力攻めで味方の損害を増やす愚を避けたのです。そのため元康の出陣を知っても動かず、できるだけ近くに誘き出すことを考えていました。

掛川城の戦い
掛川城救援を急ぐ元康は、曳馬城に大軍の威容を見せつけるかのように牽制しながら東進します。信玄の本陣が小笠山にあることを知ると右翼に松永久秀を配置、来襲に備えますが信玄に動きはありません。そこで元康は速戦即決を決断、掛川城に迫ります。山県昌景は城内からの出撃を警戒しながらも城西に布陣、迎撃の構えを見せます。酒井忠次を先鋒に攻撃を開始した幕府軍は防御に徹する山県勢を突破できず、元康の本隊も総攻めに掛かります。しかしここでも武田軍得意の高速機動が威力を発揮します。というのは密かに小笠山から正法寺に進出していた馬場信春の別働隊が逆川を渡って背後に迫っていたのです。別働隊の接近を知った久秀が迎撃のため兵を割いたのを見計らったかのように信玄の本隊も下山、久秀は両面に敵を受けることになります。久秀軍は奮戦しますが次第に押されて戦線が収縮、元康の背後に危険が迫ります。さらに防御に徹していた山県勢も反攻に転じたため戦況は逆転、三方からの圧力を受けた幕府軍は崩れ始めます。武田軍の追撃は急であり、元康を逃がすために米津常春・蜂谷貞次らが盾となって討死しますが元康は何とか吉田城に入ることができました。また松永久秀も弟内藤宗勝を失います。負け知らずだった元康にとっても信玄という巨人の壁は厚すぎたのです。破竹の勢いで進撃してくるであろう武田軍にどうやって対抗するか? 妙手の浮かばない元康に思わぬ助け舟が入ります。越後の上杉輝虎です。

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戦国時代

Posted by hiro