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近世城郭強さの証明

大坂城のような近世城郭のほとんどは元和偃武によって戦場になることはありませんでした。軍事拠点としてよりも政庁としての役割が主になり、費やした多大な経費と労力に見合わぬ無用の長物に化したかというと、そんなこともありません。長い歴史を経て進化してきた築城技術は極みに達し、その防御力には端倪すべからざるものがあったと思います。

大坂城が落ちたのは本丸のみの裸城にされたことが大きいですし、関ケ原の前哨戦となった伏見城も20倍の敵を相手に3週間持ちこたえ、炎上したのは内応者の放火が原因とされています。このとき城兵は2千余りですから、おそらく惣構まで守るには少なすぎ、これを放棄して主要な曲輪に立て籠もったのでしょう。すでに大筒や石火矢の使用は一般的でしたが、対応する防御力は備えていたと思われます。

その後250年続いた太平の世を通じて日本の軍制に変化はほぼなかったのに対し、欧米では産業革命を経て兵器は格段に進化しました。製鉄技術の向上が火砲の破壊力・精度・射程距離を増大させたのです。この近代化された火砲の攻撃にさらされたのが戊辰戦争における会津若松城ですが、一ヶ月間の猛攻に耐えた末降伏しました。激しい砲撃に天守閣もひどく損傷したものの、崩壊するようなことはなかったのです。もともと堅固な縄張りを持つ城ですから、仮に新政府軍が本丸に突入しての制圧を試みていたなら損害は少なくなかったでしょう。

また明治維新後の西南戦争では熊本城が戦場になりました。このとき西郷軍の攻撃開始前に城下町と天守をはじめ主要な建造物が焼失していますが、これは籠城側が迎撃しやすいよう見晴らしを良くするために放火したとの説があります。確かに失火が原因なら、これほどの大火にはならないのではという気はします。おそらく伏見城と同じく兵力的に惣構を守るのは不可能と判断して城下を焼き払ったものの、思いのほか火勢が強くなって城内に延焼したというところでしょうか。天守は城の象徴であり非常に目立ちますから格好の標的にはなるでしょうが、それだけに敵の攻撃を吸収する効果もあるはずです。シブヤン海海戦で的の大きい戦艦武蔵が結果的に被害担当艦になったのと同じ理屈です。たとえ天守が瓦礫の山と化しても他の防御施設への攻撃は減殺されるので城内への侵入を阻める確率は上がるはずですが、敵の接近を許せば天守が健在でも落城は必至でしょう。本丸にまで攻め込まれてから頽勢を挽回した例を私は知りません。
結局熊本城は4倍近い兵力の西郷軍を寄せ付けず、城内への侵入を許しませんでした。西郷軍の単なる強襲に終始する無策ぶりにもよりますが、勾配が徐々にきつくなっていく石垣(武者返し)は効果覿面だったようです。

城というと天守をイメージするのが一般的ですが、その真の魅力は巧妙な縄張りや様々な仕掛け・罠にあると思います。美術的価値は副次的なもので、あくまで戦における堅固さを追い求めたものだったことを希少な戦歴が物語っています。とはいえ私は戦国期の山城のほうが好きですが…

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近代

Posted by hiro