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源氏鼎立と平氏政権

2023年8月4日

源義賢は、南関東に勢力を扶植した長兄義朝に対抗するため父為義によって送り込まれた北関東に勢力を広げましたが、義朝の子義平に討たれました。この時木曾谷に逃れた義賢の次男駒王丸が後の義仲です。頼朝に遅れて挙兵した義仲が父の故地回復を目指すのは当然でしょう。電光石火の如く上野・武蔵に乱入した義仲軍に、頼朝と対峙していた秩父党は背後を脅かされることになります。秩父党はどうするか? この時代重要なのは婚姻関係によって結ばれた血縁です。彼らのほとんどはよそ者の義仲より近親者が多く属する頼朝陣営に降るでしょう。頼朝は義仲との対決を避け、平氏打倒に向けての共闘を提案するはずです。義仲にとって頼朝は父の仇の片割れとも言えますが、令旨を奉じて挙兵した以上異論はありません。兵を退いて両足利や新田といった上野・下野の平氏方に備えた後、目を北陸に向けることになりますが、上野と武蔵の一部は義仲の勢力圏に入ります。

甲斐では武田信義ら甲斐源氏が挙兵、駿河を制圧します。ここに至って平氏中枢は各地の家人に任せておくことに不安を感じ追討軍の編成に掛かります。史実での富士川の戦いでは追討軍はまともに戦うことすらできず崩壊しており、この原因は養和の大飢饉の影響で兵糧の調達に苦しみ士気が阻喪、兵も2千ほどに減っていたためとされますがどうでしょう? この飢饉は養和と名付けられている通り翌年、しかも西国から発生したものです。兵站を軽視して見切り発車したのは事実かもしれません。要は準備不足だったということで見通しが甘かったと言わざるを得ません。ここまでの経緯から考えて追討軍派遣は少なくとも半年は遅れて平清盛は死去していたことになります。逆に飢饉は本格化していることになりますが、慎重な重盛は万端の方策を整えてから軍を動かすでしょう。平氏には日宋貿易で蓄えた莫大な富がありますからね。また一説に重盛は平治の乱後頼朝の助命に強硬に反対したと言われます。源氏復権の芽を摘むために万全を期して数万規模の大軍を派遣するはずです。総大将は維盛か宗盛でしょう。

ここは非常に重要な局面で、追討軍が大敗するようなら流れは止められません。維盛にしろ宗盛にしろ軍事指揮官として優秀とは思えませんが、副将格に藤原忠清がいます。下手な戦はしないでしょう。また頼朝が関東経略にてこずっている以上、甲斐源氏としては後詰を期待できず単独で当たることになります。すでに遠江も制圧しているかもしれませんが、数的劣勢を踏まえて後背地に近い富士川に退いて持久戦を志向するのではないでしょうか。戦線は膠着すると思われます。その間に頼朝は関東、義仲は北陸の平氏方を降していき甲斐・駿河の甲斐源氏と鼎立する形になります。まるで戦国時代の北条・上杉・武田のようですね。

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平安時代

Posted by hiro