G-FTB5DFYZ60

ヘッダー

やはり新時代の開拓者は源頼朝

両上杉と新田が上手く共同歩調が取れず源義仲に各個撃破されたのに対し、義仲との合流を目指した志田義広は小山・宇都宮など下野の豪族に阻止されます。義広が一路鎌倉に向け南下していたなら頼朝は両面作戦を強いられ苦しかったはずですが、この状況を見た頼朝は義経に義仲軍撃破を命じ、梶原景時・畠山重忠を付けて北上させます。両軍は分部河原で激突しますが伏兵を巧みに配置した義経軍が義仲軍を包囲殲滅、義仲は信濃へ落ちる途中討たれます。義広も屈服して源氏は頼朝に一元化され、近畿以西の平氏、東国の源氏そして奥州藤原氏が鼎立することになります。

ここで大きなポイントになるのは頼朝が義経をどこに向かわせるかでしょう。もしも義仲の勢力圏を掌握させるため、そのまま信濃から北陸へ出るならば義経は平氏方を打ち破って京に入り、源氏の優勢は揺るぎないものになるでしょう。しかし尾張に戻るとなると、義経不在の間に平知盛が反転攻勢に出て形勢が逆転しているかもしれず、そうなると義経であっても一気にこれを覆すのは難しくなります。膠着状態から政治的駆け引きが盛んに行われるでしょう。藤原秀衡があからさまにどちらかに加担するとは思えず、後白河院と重盛が一蓮托生である限りは平氏に分があります。ただ義経という戦術的天才が局面を一気に打開する可能性は少なくないです。

あとは人が決して抗えない死がいつ訪れるかにもよりますね。重盛が頼朝より長命とは考えにくく、後継者が小松殿家であれ宗盛であれ頼朝に対抗するには器量が不足です。個人的には知盛ならば、あらゆる面で少なくとも及第点以上の人物だったと思うので伍し得たかもしれませんが、彼も重盛同様病がちだったとされているので宗盛を差し置いて棟梁になることはなかったでしょう。奥州藤原氏について言えば、もし秀衡が義経を招き入れなかったとしても死後の内紛は避けられずに弱体化していたはずです。義経は天才的な武人ですが政治的センスは皆無ですから、奥州に身を寄せることがなくても諸勢力間の争いに巻き込まれて利用され、非業の死を遂げることになったでしょう。武士の世の到来は歴史的に避けられず、それを成し遂げられた人物は頼朝しかいなかったのではないでしょうか。また壇ノ浦での平氏滅亡と安徳天皇の入水はなかったことになりますが、安徳天皇が夭折もしくは子をなさず早世した場合、擁立されるのは守貞親王か尊成親王でしょう。乳母が知盛正室であることから守貞親王が有力ですが、どう転ぶかわからず尊成親王が後鳥羽天皇として即位する可能性は少なくありません。頼朝が存命中に鎌倉幕府成立にこぎつけられなかったとしたら、歴代天皇でも屈指の傑物後鳥羽が平氏一門を手なずけ全く違った形での武断政治を実現させていたかもしれません。頼朝の後継者頼家が武芸に秀でていたのは確かですから、それなりの求心力は保ったかもしれませんが政治家としては微妙です。利害の対立する諸勢力間のバランスを調整しながら権力基盤を確立していくのは頼家の手に余り、内紛が絶えずに後鳥羽に利用されていた可能性大です。いずれにせよ遅くとも元寇までに全国を統べる強力な統一政権が誕生していないと西国はモンゴルに侵略され隷属していたかもしれず、日本の歴史は東西で全く違ったものになったことでしょう。

史伝 後鳥羽院〈新装版〉 [ 目崎 徳衛 ]価格:2,860円
(2023/8/5 11:56時点)
感想(0件)

平安時代

Posted by hiro