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桶狭間後の今川義元 その26

関ケ原で大勝した幕府軍は余勢を駆って大垣城はおろか稲葉山城も奪還します。美濃国衆の動揺は激しく雪崩を打って幕府に帰参し、将軍足利義輝は尾張への圧力を強めます。上杉輝虎は佐和山城に戻って武田信玄の出方を窺うことになります。

武田家中の動揺
諏訪勝頼の敗戦は武田家中にも衝撃を与えました。血気にはやって猪突し壊滅的打撃を受けたうえ、信玄股肱の臣である山県昌景を死なせたことで後継者が勝頼で大丈夫かと不安視する声が大きくなります。信玄の家臣団にはもともと外様である勝頼を快く思わないものも多く、また廃嫡された義信の器量を惜しむあまり決戦に踏み切った勝頼とその側近に対する風当たりが強くなっていくのです。ここまで武将として非凡さを見せていた勝頼の初めてではあるが決定的な敗北によって、その将来に大きな暗雲が垂れ込めることになります。

一乗院覚慶の変心
信玄の調略は不調でした。親兄弟での相克が茶飯事の戦国時代にあって極めて珍しい北条一門の結束は氏政の代になっても変わらず、優秀な弟たちが氏政を支える姿勢には微塵の隙もありません。今川旧臣もその多くが松平元康の組下とはいえ幕府に厚遇されており、幕府方有利な情勢でははかばかしくなかったのです。しかし一乗院覚慶は別でした。同母兄弟とはいっても幼くして仏門に入った覚慶には、兄義輝に対し室町将軍としての畏敬の念はあれど決して親近感があったわけではなかったのです。俗性の争いに巻き込まれて興福寺も蹂躙され、将来別当となっても何もできはしないという無力感が信玄の誘いを魅力的なものに感じさせました。覚慶は還俗して義秋と名乗り左馬頭に任官されます。これは次期将軍が就く官職で、松永久秀が吉田兼右に斡旋を依頼して実現したものです。ウルトラCとも言える政治手法は京を押さえていたからこそのものであり、新たな神輿を得た信玄の意欲は衰えていませんでした。

幕府軍京を奪回
義秋の左馬頭就任に激怒した義輝は遂に京奪回に動きます。中山道を西進して松平元康と対峙している信玄の背後を窺ういっぽう、摂津の小早川隆景にも京への進軍を命じます。これを知った信玄は早々に陣を払って京へ退却します。これは武田軍撤退の機を見て追撃を目論んでいた元康に全く付け入る隙を与えない見事なものでした。さらに信玄は洛中での市街戦では自軍の機動力を生かせないと判断して伏見まで退きます。

松永久秀も窮地に陥っていました。大和の国衆は信玄に降ったとはいえ積極的に久秀支援には動かず若江城は再び隆景に包囲されて孤立、三好義継は遂に降伏して幕府に帰順します。ここに至って久秀は撤退を決断、信貴山城に入って本領大和の完全掌握を目指して再起を図ることになります。

木幡の戦い
信玄が撤退したことを知った義輝は、京の制圧を元康に任せて信玄を叩くべく鳥羽街道を南下します。これに対し信玄は宇治川まで退いて陣を構えるとともに伏兵として馬場信春を木幡山に、内藤昌豊を横大路城に配置します。信玄が背水の陣を敷いたことを知った義輝は、鳥羽街道の東に位置し東山からの丘陵に連なる木幡山を警戒して明智光秀を左翼に置き対峙します。程なく始まった合戦では木幡山を降りた馬場勢が幕府軍の横腹を突こうとしますが、光秀はこれを良く支えます。しかし予期していなかった左翼からの内藤勢の突撃に虚を突かれ、劣勢となった義輝は撤退を決断、光秀はここで見事に殿を務めて武将としての才覚を見せます。その戦上手ぶりが衰えていないことを証明する勝利でしたが、信玄は深追いせずに兵をまとめて大和郡山に退き、戦略を練り直すことになるのです。

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戦国時代

Posted by hiro