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桶狭間後の今川義元 その33

大和失陥によって畿内再進出への足場を失った武田勝頼は焦ります。このまま守勢に転じては幕府方の勢いは増し、時間の経過は予想される尾張攻防戦に不利に働くと考えたのです。しかし信玄の旧臣たちには遺命の通り専守防衛に徹するべきとする意見が多く、権力基盤が脆弱な勝頼はこれを無視できませんでした。

長島の戦い
そこで勝頼が考えたのが伊勢長島制圧でした。信玄でさえ刺激するのを避けた長島一向一揆は10万を下らない勢力ですが、尾張から主力を派遣し伊勢に残っていた穴山信君に背後を襲わせれば撃破できると踏んだのです。成功して版図を拡大できれば家中での勝頼の求心力は大いに上がるとの目算がありました。勝頼は長坂釣閑斎に兵2万5千を与えて伊勢へ向かわせるいっぽう、北畠具教にも信君とともに出陣するよう命じ1万5千で挟撃しようとします。しかし下間頼旦に率いられた一揆勢は中洲が多い長島の地形を生かして防戦に徹する作戦を取ります。また雑賀衆との繋がりが深い一揆勢は大量の鉄砲も装備しており、決して数が頼みの烏合の衆ではなかったのです。一揆勢を軽く見た長閑斎は力攻めに出ますが、一揆勢の火力に阻まれ砦に取り付くこともできずに多数が討死します。戦端が開かれたことを知った信君は崩れ立った一揆勢を殲滅しようと攻勢に出ますが、崩れていたのは武田軍のほうでした。火力で圧倒した一揆勢は勢いに乗って追撃、信君は辛くも戦場から脱出しますが具教は鉄砲に当たって戦死してしまいます。この惨敗で勝頼の求心力はさらに低下して苦しい立場に追い込まれることになります。

毛利の方針転換
足利義秋を保護することになった毛利輝元は、その後ろ盾となって次期将軍に担ぐことを考えます。これは小早川隆景の進言によるもので、将軍義輝との連携を維持しつつも畿内への干渉を極力避けることにし、その目を九州に向けます。義輝の斡旋で和睦して以来大友との関係は小康状態を保っていましたが、上方の争乱をよそに勢力拡大を続ける大友を放置するのは後々禍の種になり、今のうちに叩いておくのが得策と判断したのです。そこで摂津の隆景を呼び戻して九州遠征の準備に当たらせるのです。

勝頼の外交
長島での敗戦に勝頼は激怒しますが、大きな損害のためすぐに再征することは困難でした。また長島一向一揆が武田を遥かに凌駕する数の鉄砲を装備していることも予想外でした。そこで勝頼は火縄や火皿が濡れると使い物にならない鉄砲の弱点に目をつけて出陣を雨期まで待ち、その間に戦力の回復を図るとともに、時間稼ぎとして和睦交渉に出ます。その相手は上杉謙信でした。幕府に従順な謙信が和睦に応じるとするならば、武田が幕府に帰順することが必須条件になるでしょう。もちろん勝頼にそんな気は毛頭ありませんでしたが、律義な謙信が仲介している限り幕府軍の急速な攻勢はないという計算でした。
これに対する謙信の対応は予想通りのもので、幕府に降る気があるならば自分が仲立ちをするというものでした。勝頼はあくまで低姿勢で良い条件での和睦の斡旋を打診するとともに、妹菊姫を謙信の養子長尾顕景に嫁がせることを提案します。勝頼にとっては単なる時間稼ぎだったのですが、これが上杉家中に波紋を与えます。というのも幕府方として戦ったことで謙信の声望は大いに上がり、越中・加賀・能登を勢力圏に加えたものの、これら北陸では一向一揆の勢力が強く実効支配できたのはごく一部にすぎなかったのです。つまり家臣団にとっては実入りがほとんどない遠征だったことへの不満が燻り始めていました。そのため家中は、この際武田と手を組むべきという意見と逆に南下して甲信を奪うべきという意見とに割れることになり、謙信はその統制に苦慮することになるのです。

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戦国時代

Posted by hiro