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桶狭間後の今川義元 その36

佐竹義重の挑戦を受けた北条氏政は大軍を催して度々出陣するものの鬼義重率いる佐竹勢の精強さは侮れず、そのヒットエンドラン戦法に苦しみます。数的優位を生かして積極的に野戦に誘致する方策を取らず、大きな打撃を与えることができませんでした。リスクを取らない氏政のやり方には三船山での大敗のトラウマがあったのでしょうか。慎重ながらも機を見るに敏で果断だった父氏康と比べると、氏政の将としての才覚は大きく劣るものでしかなかったのです。

豊芸手切
上杉謙信が南下の意欲を示したことに対して、将軍足利義輝はしばしこれを押さえます。確かにここで謙信に連動して尾張に攻め込めば、武田勝頼は窮地に追い込まれるでしょう。しかし義輝には懸念がありました。毛利の動きです。義輝の意向に反して毛利が弟義昭を庇護している事実はもはや疑いなく、何らかの思惑があると見るべきです。摂津には小早川勢がおり、尾張に大軍を差し向けた留守を狙われないとは限りません。そこで義輝は一計を案じます。かつて毛利との和睦を取り持った北九州の大友に牽制させるのです。
鎌倉時代に豊後守護職に補任されて以来北九州に勢力を広げ、室町幕府とは一貫して親密だった大友氏の幕府との関係は新興勢力にすぎない毛利氏のそれとは比較にならないほど深く、義輝にとっては頼みとなる存在です。毛利の目を一時的にでも西に向かわせることができれば背後の憂いを断てると踏んだのです。
幕府の要請に対して宗麟は快諾しますが、その思惑は単なる牽制にとどまりませんでした。豊前に唯一毛利領として残された規矩郡を奪回し、九州から毛利勢を追い落とす絶好の機会と捉えたのです。宗麟に派遣された田原親宏は瞬く間に毛利勢を駆逐、豊芸の和睦は反故になります。

毛利が宇喜多を懐柔
突然和睦を破られた毛利では今後の方針をめぐって紛糾します。毛利輝元はすでに小早川隆景に九州遠征の準備を命じてはいたものの、従前通り上方の政局に深く関与するか、再び九州へ食指を伸ばすかで割れていました。隆景は大友の背信行為を看過すれば九州の親毛利勢力を見捨てることになり、大友が渡海してくる可能性を高めると考えます。ここは先んじて九州に侵攻して隙を与えるべきではないが、勇将が多い大友軍と当たるには大軍が必要です。そこで隆景は宇喜多直家を懐柔して傘下に加えることで西に傾注するよう輝元に進言しますが、隆景の兄吉川元春は直家を表裏あって信用ならない人物として反対します。結局輝元は隆景の意見を容れて直家の備前支配を認めることで取り込むことに成功、いっぽうで隆景は九州の大友方への調略を盛んに行います。

大友家中の軋轢
このころ大友家の家督はすでに宗麟の嫡男義統に譲られていました。隠居した宗麟はキリスト教への傾倒を深め、政治よりも文化人としての活動に重きを置くようになっていたにもかかわらず政事への関与を続け、これに義統は不満を持っていました。また、キリスト教に反感を持つ家臣も多いことなどが結びついて不協和音が生じ、家中の結束には綻びの兆しが見え始めていました。隆景の調略は、これらを的にしたものだったのです。

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戦国時代

Posted by hiro