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桶狭間後の今川義元 その46

徳川家康は曳馬城を回復すると、ここを対武田の拠点と位置づけて拡充を進め浜松城と改名します。さらに北条の参戦を知ると歩調を合わせて圧力を強めるとともに、懸案である二俣城攻略に嫡男信康を派遣します。

二俣城落城
家康は信康に対し二俣城の水の手を断つこと、そのために前回の攻囲戦で発見した井戸櫓を落とすことに注力するよう言い含めます。決して無理せず損耗を防ぎながら攻めることを示唆したものでしたが、信康の指揮は単純明快でした。とにかく井戸櫓を落とそうと猛攻をかけたのです。この攻防は熾烈を極めましたが多勢に無勢では支えることができず、程なく落とされます。水の手を断たれて救援の見込みもない城将依田信蕃は遂に開城を決断、降伏します。信濃から遠江への橋頭堡と言える二俣城の失陥は、武田にとって北から反転攻勢をかける芽を摘まれる痛手でした。

信康の独走
天竜川を防衛ラインに定めていた武田信廉は、予想される幕府軍の侵攻に備えて見付に城を築いていましたが、二俣城が落ちたことで幕府軍が秋葉街道を南下して一挙に掛川を目指す危惧が生じました。しかし対北条に軍勢を割いている状況で二正面に押し出されては対応できません。そこで攻勢正面を見付城と予想し、真田城・飯田城には僅かな兵での籠城戦を指示します。
いっぽう家康は、北条の侵攻で駿遠が草刈り場になることを恐れましたが、薩埵山で戦線が膠着していることを知ると急ぎませんでした。自身は東海道を進んで見付城に圧力をかけ、信康には秋葉街道を睨む真田城・飯田城を自落させて掛川城を裸にすることで、大規模な合戦に及ぶことなく武田軍を撤退に追い込もうとしたのです。信廉が駿河に退けば少なくとも遠江は確保でき、北条勢との挟撃でその命運は尽きるとの目算でした。
家康は天竜川以西を制圧すると見付城に向かいます。力攻めはせずに音を上げるのを待つつもりでしたが、意外な知らせがもたらされます。それは信康があっと言う間に真田城・飯田城を落としてしまったというものでした。若い信康は家康の意向を無視したのです。家康は信康に進撃を止めるよう急使を出しますが、勢いに乗った信康がそのまま秋葉街道を南進するかもしれず、そうなれば掛川の信廉が座視するはずはありません。そこで家康は軍勢を割いて自ら北上することになります。家康は宇刈まで進出していた信康とようやく合流して激しく詰問しますが、そこに届いたのは信廉が掛川を放棄して諏訪原城に向かったとの報告でした。結果的に信康の独走が信廉を退かせたことになりましたが、武勇に優れながらも短慮な信康の器量に家康は一抹の不安を抱くことになります。

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戦国時代

Posted by hiro