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小五郎と龍馬

木戸孝允が桂小五郎と名乗っていた幕末、彼は江戸で屈指の剣客として知られていました。私はかつて小五郎は小兵で敏捷、非常に技巧的な剣を使うと思い込んでいましたが、これは紛れもなく司馬遼太郎作『竜馬がゆく』の影響です。豪快な龍馬の剣とのコントラストが人間性の違いを鮮やかに浮かび上がらせ、さも事実であるかのように刷り込まれていたわけです。龍馬は小五郎の剣術が苦手で辛うじて勝ったことになっており、この小説の影響からか龍馬が小五郎を試合で下したというのが半ば定説になっていました。

ところが近年、1857年(安政4年)3月に土佐藩上屋敷で行われた試合で小五郎が3対2で龍馬を破ったという新史料が発見されてニュースでも報道されました。定説を覆す新発見ですが、当時試合は頻繫に行われていましたから二人の対戦がこの一度きりだったとは思えないんですよね。記録に残っていない対戦が何度かあったのではないでしょうか。

すでに江戸三大道場の一つ神道無念流練兵館の塾頭であった小五郎の剣名は非常に高く、その実力に疑問の余地はありませんが龍馬については懐疑的に見る向きも多く、発見された試合結果はその裏付けとの意見もありますがどうでしょう? 確かに龍馬が桶町千葉道場で北辰一刀流の免許皆伝を得て塾頭を務めたというのは司馬さんの創作かもしれませんが、強かったのは間違いないでしょう。この試合には小五郎の師匠である斎藤新太郎も出場していますが、千葉周作の高弟海保帆平に敗れています。ということは千葉栄次郎をはじめとする千葉宗家は出ていないということになり、新太郎をも凌ぐかという小五郎に誰をぶつけるかは注目されたはずです。ここで並み居る強者を抑えて龍馬が選ばれたという事実は少なくとも帆平に次ぐ実力があり、小五郎とも渡り合えるという期待を寄せられたということでしょう。敗れたとはいえ小五郎から二本取っているのですから弱かったはずはないですね。それに龍馬暗殺の際、京都見廻組は選りすぐりの手練れ6人(あるいは7人)で臨んでいます。これはこの試合で小五郎と互角に戦ったことで龍馬の剣名が大いに上がり、恐れられていたことを示しています。

実際の小五郎は5尺8寸ですから174~5cmと非常に大柄です。龍馬については5尺6寸から6尺と証言に幅がありますが、二人とも遜色ない体躯の持ち主だったのは間違いないところです。どんな立ち合いだったかを想像すると、『竜馬がゆく』とは真逆だったのではという気がします。他流試合が広く行われるようになって久しく、流派による違いが特に竹刀剣術においては昔ほど顕著ではなかったと思われますが、それでも「技の千葉、力の斎藤」と言われていたように持ち味は異なっていたはずです。神道無念流は軽打を許さず渾身の打突により一撃で勝負を決する力の剣法で薩摩の薬丸自顕流に通ずるものがあり、また胴技と突き技がなかったという説もあるほどです。大柄な小五郎が泰然自若、上段に構えて隙を見せず、龍馬が竹刀の先端を鶺鴒の尾のように震わせながら、なんとかして付け入ろうと苦心する、そんな光景が目に浮かんでくるのです。

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江戸時代

Posted by hiro