海道一から天下一へ その45
伊豆水軍を無力化した幕府水軍は下田城攻略を長宗我部元親に任せて小田原近海に進出します。梶原景宗率いる北条水軍の抵抗は散発的なものにとどまり、主力は三崎城に退却します。これは自給自足が可能な小田原城ならば、たとえ海上封鎖されても数年の籠城さえ可能という北条方の自信を表すもので、水軍をこれ以上すり減らさず温存しようとの思惑でした。
幕府軍、相模に進出
海上封鎖によって小田原包囲が完成したことから、徳川家康は相模の北条方諸城制圧に乗り出します。小田原城が守りに徹して攻勢に出る気配がないため軍勢を割いても包囲には十分なことと、それによって必要な糧食を軽減できると踏んだのです。兵站に万全を期しているとはいえ小田原城が早期に音を上げるかは不透明であり、慎重な家康は輜重部隊の負担を考慮したのです。また里見義康が相模に渡海せず房総半島を北上していることから、相模・武蔵を自らの手で制圧して小田原城を完全に孤立させようとの目論見でした。この任を与えられたのが家康の盟友細川幽斎の嫡男忠興で、1万5千を率いてまずは玉縄城へ向かうことになります。
上杉、遂に参戦
前田利家率いる北方軍に上野南部を制圧された北条氏照は、捲土重来を諦めていませんでした。鉢形城に敵を引き付けておき、箕輪城に籠る弟氏邦に出陣を促して痛撃を与えようとの決意でした。ここでもたらされたのが、上杉軍が大挙三国峠を越えて南下しているとの知らせで、これに氏照は目を輝かせます。上杉景勝がようやく重い腰を上げたのです。上杉が氏邦に合力すれば、幕府軍を殲滅することすら可能でしょう。氏照は氏邦に対して上杉軍とともに鉢形城に迫る幕府軍の背後を突くよう使者を送りますが、その返事は氏照を驚愕させるものでした。名胡桃城・沼田城を落とした上杉軍が、箕輪城を包囲したというのです。まさに青天の霹靂でした。義に篤く、背信行為とは無縁と考えていた景勝が敵に回るとは思いもよらなかったのです。幕府の大軍を蹴散らし、さらに上杉の強兵を撃破して箕輪城を開放するのは至難の業です。ここで全滅の憂き目に遭えば、戦局は挽回不可能です。ついに氏照は氏邦救援を諦めて滝山城に後退することになります。
北条の戦略破綻
上杉景勝が幕府側に立ったという知らせは小田原に衝撃を与えます。ここまで幕府の参陣要請に対し、庄内で最上義光に不穏な動きがあり、これに対処するためとして応じなかった景勝でしたが、全ては直江兼続の献策による自作自演でした。しかし北関東の戦況と、幕府水軍の相模湾制圧を鑑み北条はジリ貧になると見た景勝は、今こそ幕府に恩を売るとともにあわよくば版図を広げる時期と判断したのです。これにより上杉・伊達との幕府軍包囲網形成を目論んだ北条の戦略は全面的に破綻し、小田原では一部で和議を模索しようとする空気も生じます。それでも特に北条氏政は強気な姿勢を崩しておらず、長期の籠城は想定の範囲内であり、攻めあぐねた幕府軍はいずれ撤退せざるを得ないと考えていました。また当主氏直にとっても、ここでの和議は全面的屈服にほかならず、家名の存続も危ういとして論外なものでした。和議を求めるにしても有利な条件を引き出すためには局面の打開が必須であり、佐竹と対峙している伊達政宗にも上杉を翻意させるよう説得を依頼するなど動き始めますが、頽勢の挽回は容易ではありませんでした。
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