三浦義村の限界
宝治元年(1247年)6月5日、鎌倉幕府執権北条氏が御家人最大勢力の三浦氏を滅ぼしました。所謂宝治合戦です。長年北条氏と連携して政敵を葬り去り北条に次ぐ権勢を誇った三浦氏が、僅か一日の合戦で族滅された原因は惣領三浦泰村の楽観的過ぎる状況判断にあったでしょう。精強で鳴る三浦党の当主ですから武芸に秀でていたのは間違いないですが、政治家としての力量は父義村に遠く及ばなかったようです。
この三浦義村という人物、ドラマなどでは野心に溢れ権謀術数に長けた油断のならない存在として描かれますね。彼の時代には度重なる権力闘争において常に北条側に付き、これに比肩できるほどの大勢力を築いたのですから上手く立ち回ったとも言えますが、その内実は利用されただけでしょう。確かに彼の代には北条は三浦に手出しできなかったかもしれません。しかし常にライバルを追い落としてきた北条の矛先が、いずれ向かってくるであろうことは想像できます。まして後継者泰村兄弟が武辺者ばかりで政治的センスがないことを親として見抜けなかったとは思えません。もしかしたら義村は晩年、北条打倒に立ち上がらなかったことを後悔していたのではないかと思うのです。
私としては、立つべきだったのは和田合戦と考えます。侍所別当である和田義盛に対して義村は起請文まで書いて同心を約束したにもかかわらず変節して北条につくのですが、この起請文というのが怪しいですね。三浦氏の庶流である和田氏は歴とした同族ですから、本来そんなものは必要ないでしょう。これは義村が北条に与すると肚を決めており、義盛に挙兵を促す誘い水のようなものだったのではと思えます。
また義盛と義村は対立関係にあったという説もあります。起請文が必要だったのはそのためかもしれません。確かに侍所別当の義盛を京では三浦党の領袖と見ていたようで、本家の義村に不満があったとしてもおかしくありません。ここで北条を打倒すれば義盛の権勢は頂点に達し、その風下に立つことは避けられません。しかし本家である三浦と庶流である和田では枝葉の数は比較にならず、しかも義盛は老齢です。三浦党での主導権を取り戻すことは北条と対決するよりも遥かに容易なことでしょう。何故北条についたのか個人的には理解に苦しむところです。
反北条の黒幕と囁かれながらも数々の権力闘争において最終的には北条に与したことは、歴史的には不可避だったと思われる対決を先送りにしてきただけです。北条にとっては喫緊に排除しなければならない政敵が他にいたということで、常に勝馬に乗るという姿勢が結果的に北条得宗家の権力基盤を強化してしまいました。保身に走って敵対を避け続けたと見ることもできます。そう考えると義村は、武勇には優れていたものの巷間で言われるほどの野心家ではなく、むしろ小心な人物だったのではないかと想像してしまうのです。彼の器量は坂東八平氏という血筋と、その中でも最大の勢力を誇った実力と声望には見合ったものだったかもしれませんが、決してそれ以上のものではなかったというのが私の結論です。
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