平重盛 in 平氏政権
治承3年(1179年)7月29日、平重盛が42歳で父清盛に先立ち病死しました。権勢をほしいままにした平氏一門の中で一貫して後白河院に近く、良識ある人物として描かれることが多い重盛が長命だったならば歴史は変わっていたのではないかとの声も少なくないですね。大局的には平氏が表舞台から消える運命は変わらなかったと思いますが、そこに至る展開は史実と大きく異なったであろうことは間違いないところです。
一般的に清盛の後継者としての重盛の立場は存命中すでに揺らいでいたとされます。確かに鹿ケ谷の陰謀に義兄である藤原成親が加担していたことで面目を失ったのは事実でしょうが、異母弟宗盛との官位の差は縮まりこそすれ最後まで逆転することはなかったのです。清盛としては平時ならともかく、一朝ことあらば兵を束ねるに相応しい武勇を発揮してきた重盛を頼もしく思っていたのは当然でしょう。少なくとも重盛を退けてまで宗盛を引き立てる気はなかったのではないでしょうか。また宗盛も重盛を追い落としてまで棟梁の座を得ようとは考えなかったでしょう。源氏の蜂起による動乱が間近に迫っているとしたら尚更のことです。
そもそも成親は平治の乱で敵対した人物です。それが妹経子が重盛正室だったため軽い処分に留められ、院の側近として権大納言まで昇進しました。重盛からしてみれば明らかに裏切り行為であり、陰謀発覚後も成親を庇い続けたのは些か奇異に思えますが、これには重盛の出自が背景にあるでしょう。母の身分が低かったため、その親族に有力者がいなかったことや唯一の同母弟基盛をすでに失くしていたこと、異母妹徳子を猶子として高倉天皇の中宮としたものの外戚として優遇されたのは徳子の同母兄弟だったなど、重盛を長とする小松殿家の権力基盤が脆弱だったことから、院との調整役を期待していた成親を失うことを必要以上に懼れたと考えられます。
また重盛には線の細さも感じます。殿下乗合事件からわかるように内に激情を秘めながらも冷酷にはなれない。これは利害の異なる諸勢力を包括しなければならない政権運営において、ただでさえ枝葉が少ない小松殿家が一門内で孤立することを避けるために中道を選んだと見ることもできます。このあたり権謀術数を駆使して政敵を屠ってきた父清盛や源頼朝に比べると、政治家としての逞しさに欠けるきらいはありますね。
それでも清盛没後も彼が健在ならば、歴史は史実と異なる展開を見せたでしょう。次回はその点を考察してみます。
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