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不可避だった源頼朝の挙兵

平重盛が健在だった場合の展開を考える上で重要なのは、父清盛と後白河院が決裂した治承三年の政変が起きていない点です。重盛死後その知行国越前を院が没収したことに清盛が激怒して院政停止に追い込んだこのクーデターは以仁王挙兵の直接的原因でもあるので、この段階での源氏の蜂起はなかったものと推察できます。また建春門院の死去以来清盛と院の対立は先鋭的なものになり、互いを疎ましく思っていたのは間違いないですが、一貫して院に近い立場にあった重盛の存在が緩衝材としての役割を果たしたと想像できます。おそらく火種を抱えながらも両者の対立は暫し小康状態を保ったと思われます。

しかし平氏の専横に対する不満が鬱積していた事実は変わらず、いずれ何かのきっかけで爆発したことでしょう。最も可能性が高いのは南都北嶺をはじめとする寺社勢力です。僧兵を擁する彼らは自らの要求を通すために強訴を繰り返し、その抑制には清盛・院とも苦心してきました。寺社間の利害はもちろん内部の主導権争いが政争に波及して、平氏打倒へのネットワーク構築に繋がることでしょう。そこに加担するのが以仁王だったかもしれません。となると史実よりも遅れて平氏追討の令旨が出されることになります。しかし重盛が、平氏の権勢はあくまでも後白河院政を支えるものというスタンスを崩さず清盛を抑えるならば、この動きは反逆でしかなく各国の源氏がこぞって兵を挙げたか微妙なところですが、伊豆の源頼朝は決起したはずです。なぜかというと関東の武士団を瞬く間に掌握しながら平治の乱で敗死した父義朝の影響です。

義朝の名を大いに上げた鎌倉党の大庭景宗が下司を務める大庭御厨濫行事件で主力となったのは、三浦党の三浦義継と中村党の中村宗平です。源氏没落後平氏に従属して勢力を挽回した鎌倉党に対して、義朝に極めて近かった彼らは逼塞を余儀なくされていたので令旨は失地回復の絶好機なのです。つまり義朝の嫡男頼朝は神輿として担ぐにこれ以上ない存在だったということです。しかし史実よりも頼朝側に有利な状況が生まれていたわけではないので、やはり合戦に敗れて安房に落ち延びることになったと思われます。

そこから北上して武蔵へというのも簡単ではないです。重盛は東国武士との関係構築に熱心でした。治承三年の政変後上総介となった藤原忠清は、別当としての権限をかざして上総広常を圧迫して広常を頼朝陣営に走らせる原因を作っていますが、この行動は忠清が重盛の忠実な家人だったことから重盛の死による小松殿家の勢威縮小を見越して自身の勢力拡充を図るものだったと考えられます。つまり重盛が健在ならば東国武士団との関係は、好転こそすれ悪化はしなかったと見るべきです。もちろん各武士団と平氏との距離感は様々であり、同族間でも親平氏と反平氏のせめぎあいから彼らが堰を切ったように頼朝に付く事態にはならなかったでしょう。この場合三浦党の力を恃んで海路鎌倉に入るのが自然と思われます。

頼朝は鎌倉から各地の平氏方切り崩しを狙って政治力を発揮していくことになりますが、この段階では鎌倉党は無論のこと武蔵一帯に根を張る秩父党も平氏方であり、勢力拡大は漸進的なものにとどまります。ところが思わぬところから助け船が入ることになるのです。

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平安時代

Posted by hiro