海道一から天下一へ その9
毛利と長宗我部が幕府に屈服した天正12年(1584年)、九州の情勢を激変させる合戦が起きます。肥前の龍造寺隆信が沖田畷で有馬晴信・島津家久連合軍に敗れ討ち取られたのです。これによって大友・島津・龍造寺鼎立の構図が崩れ、毛利の圧力から解放された大友と勢いに乗る島津の全面対決が不可避となります。
流浪の義昭
足利義昭は毛利軍から離脱後僅かな側近とともに諸国を流浪していました。その正統性に疑念があるとはいえ、朝廷が義昭を将軍として認めた事実は広く認知されており、行く先々で粗略に扱うものはいませんでした。しかし復権への意欲を隠そうとしない義昭に肩入れすることは、徳川家康をはじめとする幕府中枢に目をつけられることになりかねず、その存在は厄介なものだったのです。落ち着き場所のない義昭が頼ったのは越後の上杉景勝でした。兄義輝が殊更昵懇だった謙信の後継者である景勝ならば、毛利に代わる復権に向けた後ろ盾として申し分ないと考えたのです。景勝は義昭を受け入れるものの、すでに家康の次女亀姫を正室に迎えることが決まっており、家康と対決する気はありませんでした。しかし毛利同様義昭を将来有用な駒として手元に置くことにしたのです。
四国の騒擾
阿波の三好康長は嫡男康俊を海部城の接収に向かわせますが、長宗我部元親の弟香宗我部親泰はこれに応じず衝突します。幕府との折衝役を務めていた親泰は、海部城が早くから阿波進出の拠点とし海上監視に重要な位置にあることから引き続き領有を認めるという言質を家康から取っていたのです。そんなことを知らない三好との間に諍いが起きるのは当然でしたが、これは家康の計略でした。怒った元親が兵を向けると今度は伊予で河野・西園寺の残党が復権を図って蜂起します。これもやはり裏で糸を引いていたのは家康でした。家康としては長く反抗的だった元親を土佐一国に封じ込めようと画策していたのです。腹背に敵を抱えることになった元親は兵力を分散させるを得ず、苦しい戦いを強いられます。
幕府軍四国上陸
家康が主導する幕府は四国での争乱を長宗我部の背信と決めつけ討伐軍を起こします。総大将に前田利家、家康自身も後詰として出陣の準備にかかるいっぽう先遣隊として生駒親正・加藤光泰を渡海させます。讃岐に上陸した親正はそのまま阿波を睨み、光泰は伊予に転進して河野・西園寺に合力する構えを見せますが、積極的な攻勢には出ませんでした。これは家康が精強な長宗我部の一領具足を警戒し、窮鼠が猫を噛むことがないよう圧力を加えながら大きな戦に発展させず屈服させようと志向したためでした。戦意旺盛な長宗我部軍にも利家・家康の主力も渡海間近との情報が入ると動揺が広がります。元親の嫡男信親は徹底抗戦を叫びますが、元親の弟親泰は家康に口約束を反故にされた経緯からその意図を察し、抗戦しても勝ち目はなく家名を残すには恭順するしかないと説きます。逡巡する元親の心情を映すかのように最前線の抵抗意欲も弱まり、長宗我部軍は徐々に腰が引け始めるのです。
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