桶狭間後の今川義元 その39
上杉謙信の急死によって窮地に追い込まれていた武田は息を吹き返すことになり、情勢は再び混沌とします。甲信を回復した武田勝頼は、さらに形勢を有利に運ぶべく各方面に調略を仕掛けます。その中には毛利や上杉も含まれていました。
幕府軍三河に進出
予想外の展開に直面した徳川家康は、今こそ攻勢をかけるべきと決断します。武田軍を破って幕府側に付いた国衆たちに動揺する間を与えず、求心力を高めるべきと考えたのです。家康は、まず秋山虎繫を先鋒に軍監として酒井忠次を付けて岡崎へ向け出陣させるとともに、武節城の稲葉一鉄に奥三河衆を率いて三州街道を南下するよう求めます。家康に焦りはありませんでしたが、武田が野戦に打って出た場合の備えも怠ってはいませんでした。
本證寺の戦い
幕府軍は刈谷城を落とすと岡崎へ向かわず南に転進します。これを知った武田信廉に別働隊が三州街道を南下中との報告が入り、信廉は幕府軍が南北からの岡崎城挟撃を狙っていると判断、軍議を開きます。籠城戦は不利という点で一致して各個撃破を図ることになりますが、小豆坂での迎撃を目論む信廉に対して馬場信春は時間の経過は利にならず、矢作川を渡って攻勢をかけるべきと主張、結局信廉は信春の積極策を容れて出陣させることになります。
幕府軍が本證寺に入ったことを知った信春は、夜陰に紛れて矢作川を渡って明暁急襲します。不意を突かれたかに見えた幕府軍の抵抗は弱く信春は一気に落とそうと逸りますが、城郭並みの縄張りを持つ本證寺を攻めあぐねるところへ北から新手の攻撃を受けます。信春の目に入ったのは厭離穢土欣求浄土の旗印でした。家康は本證寺に入らず、二子に控えていたのです。これには精強な馬場勢もたまらず形勢は逆転、本證寺からも追い打ちをかけられ脆くも崩れて不死身と恐れられた信春は遂に本多忠勝に討たれます。亡き信玄との戦いで情報の重要さを痛感していた家康は、甲賀・伊賀の忍びを使って馬場勢の動きを逐次把握していたのです。
家康、故郷岡崎へ
甲府の武田勝頼は、本證寺での敗戦と信春の死を知ると信廉に岡崎城の死守を命じますが、信廉は早々に諦め曳馬城に向けて撤退してしまいます。これによって家康は生誕地岡崎城を奪還、戦線は遠江を巡る攻防へと移ります。信廉は堀川城や刑部城をもって本坂通を扼し食い止めるつもりでしたが、家康の嫡男信康が本坂峠を越えたとの情報が入ると、これらに加えて井伊谷の井伊直虎も降伏してしまい思惑通りにいきませんでした。そこで信廉は天竜川を背にする曳馬城では不利と判断、掛川城に退いて防衛線を天竜川に変更することになります。
依田信蕃の奮戦
続々と武田方が幕府に降る中、信康は唯一態度を変えない依田信蕃の二俣城に向かいます。信康は激しく攻め立てますが、信蕃は天嶮を巧みに利用した防戦で幕府軍を翻弄します。不利を悟った信康は包囲戦に切り替えますが、平岩親吉の報告を受けた家康からの撤退命令を受けて退却します。猪武者と言える信康が逸って万が一のことがあってはという配慮からでした。この後、遠州平野への入り口に位置して本坂通を望む二俣城と信蕃の存在は、家康にとって目の上の瘤となります。
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