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桶狭間後の今川義元 その6

2024年3月17日

幕府を牛耳る今川義元と武田・北条連合の全面対決の様相が色濃くなり、新政権の発足で沈静化していた諸国の争乱は再燃します。両陣営とも諸勢力を自陣営に引き入れるための外交工作に余念がなかったのです。

輝虎動きを封じられる
武田信玄は石山本願寺の顕如と縁戚関係ということから越中一向一揆に神保長職を支援させ、上杉派の椎名康胤に対抗していましたが、上杉輝虎の動きを封じるためのさらなる働きかけを行って朝倉義景と敵対していた加賀一向一揆をも越中に向かわせることに成功します。康胤の救援要請を受けた輝虎は直ちに出陣しますが、留守を狙う形で本庄繁長を中心とする揚北衆が挙兵したとの知らせが入ります。信玄の調略によるものでした、輝虎は春日山城の留守居長尾政景に防戦を命じて越中に向かいますが、さらなる驚くべき事態に直面します。会津の蘆名盛氏が越後国境に兵を集結しているというのです。これは北条氏康の策略でした。義に篤い輝虎としては救援要請を無視することはできず、まずは越中を平らげた後の各個撃破を決意しますが、北信や関東へ動くことは不可能になりました。

浅井・朝倉の攻勢
後顧の憂いがなくなった越前の朝倉義景は、ここでも自らは出馬せず従弟景鏡に2万の大軍を預けて小谷城救援を命じます。この接近を知った松永久秀は姉川まで退いて布陣、数度の小競り合いを経て衆寡敵せずと判断して伊吹山麓まで撤退しますが、これには理由がありました。稲葉山城を落とした西美濃三人衆は美濃守護職だった土岐頼芸の四男頼元を担ぎ出して傀儡とし各々美濃全土掌握に向けて動いていましたが、義元は三人衆の分断を図っていました。この調略に乗ったのが北方城主安藤守就で、浅井・朝倉連合軍が南下して直接尾張を突く場合に備えたのです。つまり久秀の背後に心配はなく、敵がそのまま京を目指すならば退路を断つこともできます。しかし景鏡は久秀勢の抑えに魚住景固を残すと観音寺城をも素通り、一気に上洛の構えを見せます。駿府救援を急ぐ義元は、この迎撃を松平元康に命じます。朝倉の再南下に備えて築城した宇佐山にいた元康は急遽1万を率いて出陣、野洲川西岸に布陣します。数に勝る朝倉軍は一気呵成に渡河を開始しますが元康は巧みに伏兵を配置、これを撃破します。この敗戦を聞いた浅井長政は小谷城を出て米原まで進出して防戦の構えを見せますが元康は佐和山城を包囲はしたものの、それ以上北上はせずに自身は京に戻るのです。

三好氏の反攻
本拠地阿波に退いた三好では義興が病死、後継者に先立たれた長慶も失意のうちに世を去っていました。家督を継いだ長慶の甥義継は若年で実権は三好長逸ら所謂三好三人衆にありました。これに不満を抱いた義継は求心力向上のため畿内への復帰をもくろむようになりますが、実はここにも武田信玄の調略が及んでいたのです。義継は幕府軍が浅井・朝倉と武田・北条への対処で畿内が手薄になると1万で挙兵、堺に上陸し一気に京を窺う姿勢を見せます。将軍義輝は自ら出陣しようとしますが元康が説得、手持ちの兵に加えて義輝の馬廻衆を借り受け7千で急行します。飯盛山城の石川数正は寝屋川沿いに布陣して迎撃の構えを見せますが、三好軍を挑発しながら徐々に城に退き、怒った義継を引きつけます。長逸らは城にかまわず京へ急ぎ進撃するよう主張し義継を翻意させましたが、この間東高野街道を急行した元康は河内国まで進出していました。両軍は交野が原で激突しますが義輝が手塩にかけた馬廻衆が奮戦、再び飯盛山城を出た数正が後方を撹乱すると三好軍は浮足立って敗走します。さらに義輝の命を受けた高屋城の畠山高政が追い打ちをかける形になり、三人衆のうち岩成友通が討死するなど大敗して阿波へ逃げ帰ることになります。幕府の危機を再三救った元康に義輝は大きな信頼を寄せるようになり、その存在感を増します。また、これを機に堺の豪商たちや石山本願寺の顕如との関係を深めて政治的立場を強くしていくのです。いっぽう駿府救援に向かった今川義元はどうしていたのか。次回は東海の戦況を見てみましょう。

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戦国時代

Posted by hiro