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『わが命つきるとも』とトマス・モア

1535年7月6日、トマス・モアが斬首刑に処されました。法律家としてイングランドの大法官にまで登り詰めながら、国王ヘンリー8世の離婚問題に関して信念を曲げず対立、反逆罪に問われたのです。また、社会を風刺した著作『ユートピア』で知られる人文主義者であり、空想的社会主義の勃興に大きな影響を与えたことでも知られています。

モアを扱った作品で最も有名なのは、1966年の英米合作映画『わが命つきるとも』(A Man for All Seasons)でしょう。アカデミー賞では作品賞・監督賞・主演男優賞・脚色賞を含む6部門を受賞したうえ、これら主要部門では英国アカデミー賞・ゴールデングローブ賞・ニューヨーク映画批評家協会賞も総なめした傑作です。個人的にも大好きな作品で、以前の記事で好きな洋画の6位にランクしました。

英米合作とはいっても、ハリウッド色が皆無なのが良いんですよね。ロバート・ボルトが自らの劇作を映画用に手を加えた脚本、ソリッドながら様式美に溢れる映像にはハリウッド的仰々しさが皆目見られません。情景描写は静謐ながら臨場感に溢れています。これは監督にフレッド・ジンネマンを起用したことが大きかったでしょう。ハリウッドの巨匠ながら極めてヨーロッパ的とされていたジンネマンならではのものと思います。商業主義的映画製作に批判的な立場を貫いた自らを、モアに重ね合わせていたかのようです。

モアを演じたポール・スコフィールドが素晴らしいのは言うまでもないですね。舞台版でもトニー賞を獲得している演技力は、映画でも如何なく発揮されています。シェイクスピア役者の真骨頂と言うべき台詞回しは、こういった歴史劇において際立ちます。勿論ローレンス・オリヴィエーのモアもハマったとは思いますが、代えるという選択肢は端からなかったでしょうね。高潔な人格の内に激情と意固地なまでの頑なさを秘めたモア役は、一世一代のものでしょう。映画出演が極めて少ないことが残念でなりません。

しかしモアの人物像については美化されているというよりも、負の側面をあえて無視しています。勿論信念に殉じて自分自身はおろか家族の破滅までも甘んじて受け入れたのは確かですが、大法官として異端者に対しては苛烈な弾圧を加えた事実は伏せています。モアは法律家であって宗教指導者ではありません。敬虔なカトリック信者であったが故に、法の適用を司る長として当然の責務と考えて執行に躊躇がなかったということでしょう。異教徒に限らず、教義に対する解釈の相違だけでも激しい憎悪を巻き起こすことは後年の宗教戦争に顕著ですが、これは宗教上の対立に宮廷内の勢力争いが結びついて多国家間の戦争にまで発展したものであり、信仰が至上命題とは言えません。モアの場合大法官である以前にカトリックの教義に忠実であり、背くものは例え国王であっても許す気がなかったわけですから、その動機は極めて純粋なものです。もし異端に対する厳しい弾圧者という側面に触れたとしても、モアが世俗的人物だったのではという憶測には全く導かれません。脚本的に蛇足となっただけでしょう。

それにしても、モアが『ユートピア』の著者であることは何とも不思議な感じがします。架空の理想郷であるユートピアでは個人資産の所有は認められておらず共産主義社会に近いものですが、奴隷は不可欠な存在とされています。信教の自由、安楽死や離婚、聖職者の結婚や女性聖職者の存在などカトリックの教義に反する制度が用いられ、医療の無償化といった革新的なものがあるいっぽうで女性には社会的平等が与えられていません。これらは現代に生きる我々には矛盾に見えますが、おそらくモア自身それは百も承知だったのではないかと思うのです。現実社会と剝離した実現不可能な社会を登場させることで、国家や統治のありかたに対する疑義を権力者たちに呈する意図があったのではないでしょうか。もしかしたら、それは自らにも向けられたものだったのかもしれません。敬虔なカトリックならばもってのほかであるはずの社会制度を思いつくこと自体、モアが凝り固まった守旧的考えの持ち主でないことは明らかです。おそらくカトリック教会のありかたにも疑念を持っており、信条と責務の狭間で葛藤していたのではと想像します。モアが最後までヘンリー8世に抵抗したのは、離婚を成立させるという個人的かつ極めて世俗的欲望実現のためにカトリックを否定しようとした傲慢さに我慢ならなかったのでしょう。モアの死は、その後のイングランドの歴史には何の変化も及ぼさなかったと言えますが、思想面で後世に与えた影響は計り知れません。その意味では世界史上の巨人であるのは確かです。

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中世

Posted by hiro