尊厳王
7月14日はフランス王フィリップ2世の命日です。尊厳王として知られ、イングランド王リチャード1世を宿命のライバルとして鎬を削った傑物ですが、リチャードが獅子心王と呼ばれて中世騎士の鑑とされるのに対してフィリップは権謀術数を駆使する策謀家の印象が強く、リチャードの敵役として描かれることがほとんどです。しかし彼なくして後世フランスが欧州最強国にのし上がることはなく、その礎を築いたのは厳然たる事実でしょう。
何しろ、男子に恵まれなかった父王ルイ7世が待ち望んだ後継者であり、その生誕そのものがフランスを救ったと言えます。もし彼が女子として生まれていたら、フランス王位はイングランド王ヘンリー2世の手に渡っていた可能性が大だったのですから。そうなればカペー家はパリ周辺を押さえるのみの諸侯に零落してイングランドに対抗できなかったことでしょう。
ノルマン・コンクェスト以来イングランド王は封建制度上少なくとも大陸領内ではフランス王の臣下であり、ルイ7世の最初の妃アリエノール・ダキテーヌに後のヘンリー2世と結婚されてしまうという失策からアキテーヌ公領を奪われ、臣下であるはずのイングランド王が大陸において遥かに強大な勢力となったわけです。出自がフランスである歴代イングランド王はフランスで過ごすことが多く、カペー家とはいわば親戚づきあいをしていました。そのためヘンリー2世の息子たちとの仲が良いいっぽうで、主従かつライバルという複雑な関係性から様々な駆け引きがなされたことでしょう。イングランド王位継承が絡んだ親子兄弟間の争いに介入して主導権を確立しようとするカペー家の目論見は明らかです。
結局ヘンリー2世の後を継いだのが三男リチャードですが、幼いころから彼を良く知るフィリップは、その勇猛さと個人的武勇を恐れたはずです。まともに戦っては太刀打ちできないことを素直に認めていたことでしょう。そこで飛びついたのが第三回十字軍への参加要請だったと思われます。これには東フランク王国の後継たるドイツ王でもある皇帝フリードリヒ1世への対抗意識もあったでしょう。勢力では遠く及ばずとも、れっきとした西フランク王国の後継であるフランス王も皇帝たる資格を有していることを、ローマ教皇にアピールする意図があったと思うのです。この十字軍にリチャードを引き込み、自身は早期に帰還してリチャードの末弟ジョンを篭絡して追い落とすという青写真を当初から描いていたのではないでしょうか。ジョンならばいかようにも操れると踏んでいたのは間違いないでしょう。
この思惑はものの見事に当たってリチャード不在の間にノルマンディーを侵食しますが、リチャードが帰国してジョンを屈服させると守勢に回ります。それでもアキテーヌの諸侯を唆して反乱を起こさせるなどしますが、リチャードの武勇はこれを一蹴、最終的には一部の例外を除いて占領地全てを返還することになります。
結局のところリチャードが健在である限りことは思うに任せず、リチャードが不慮の死を遂げジョンが即位してから積極的な攻勢に転じて大陸からイングランドの勢力をほぼ駆逐することに成功します。リチャードと比べてしまうと軍事面では大きく見劣りし、明らかに直接対決を避けていたのではと思わせる節もありますが、決して凡将だったわけではないでしょう。フィリップの人となりについては堂々凛々、がっしり大柄な体躯、女性・ワインと豪奢を好み、戦術には精通しているが気性が激しく落ち着きがない面を恐れられていたとされます。父王は待望の王子にフランス王がいかにあるべきかの全てを授けようと英才教育をしたはずで、武勇にも優れていたことでしょう。リチャードが強すぎただけです。リチャードの武勇は同時代では無論のこと中世屈指のものですから、これと正面切って戦うのは愚とする、つまり逃げる勇気を持っていたと言えるでしょう。分をわきまえるのも才能のうちですからね。その後イングランドにエドワード3世や黒太子、ヘンリー5世といった傑物が現れたことで紆余曲折を経ますが、フランスが王権を飛躍的に拡大させて覇権国家への道を歩む端緒は、こういった難敵が現れる前に一時的にでもイングランドを大陸からほぼ追い出すことに成功したことにあると考えます。
軍事ではこれらのイングランド勢に見劣りするものの、政治的手腕ではヘンリー5世を除いては抜きん出ていたと思われます。仮にヘンリー2世の長男ウィリアムが夭折せず兄弟が一致団結して立ち向かってきたならば、さすがのフィリップも苦しかったはずです。一時的には窮地に陥ったかもしれませんが、そのしたたかさと策略で兄弟間の離間を図って成功していたことでしょう。政治的手腕においては兄弟が束になってかかっても及ばなかったのではないでしょうか。
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