やはり豊臣秀頼は凡庸
慶長20年(1615年)5月7日大坂城が落城、約150年続いた戦乱が終わって250年に渡る太平の世が幕を開けます。豊臣秀吉天下統一の象徴であった城は灰燼に帰し、その威光を葬り去ったことで江戸幕府は盤石となったのです。
近世城郭完成段階の嚆矢となった大坂城が、その完成当時最強の城だったことは疑いないでしょう。にもかかわらず落城したのは言うまでもなく、前年の冬の陣における和議で裸城にされてしまったことが原因です。もちろん和議が成立せず、豊臣方が徹底抗戦していても結果的には落ちていたかもしれません。しかし、これほどの堅城を力攻めした場合、攻城方の損害も甚大なものになっていたはずで勝利しても後の政権運営に大きな影響を与えたでしょう。幕府の求心力が低下し、新たな紛争の火種になったと思われます。おそらく徳川家康は、それを百も承知で和議を持ち掛けたのでしょう。完全な作戦勝ちですね。
それにしても大野治長ら豊臣家臣の消極性には理解に苦しむものがあります。先んじて畿内を制圧したうえで幕府軍に野戦を挑むという真田信繫ら浪人衆の主張を退けて籠城を選んだのですから、最後まで貫くべきだったでしょう。兵糧と弾薬の不足に悩んだとされていますが、そんなことは最初から分かっていることです。ひたすら固く守って小出しに城から出撃、ヒット・アンド・アウェイを繰り返して損耗させたなら、幕府軍の士気は落ち不協和音も出始めるかもしれません。寄せ集めとまでは言えないにしろ豊臣恩顧の武将も多く、決して一枚岩だったとは思えませんから。秀頼と淀殿がどの程度イニシアティブを取ったか分かりませんが、少なくとも秀頼が凡将でないならば、徹頭不徹尾な決断をするべきではなかったでしょう。
秀頼という人、小説や映像作品では柔弱で部将にはおよそ相応しくない人物として描かれる場合がほとんどですが、一方で二条城で秀頼と会見した家康が、その偉丈夫ぶりに驚き息子秀忠の手に余ると危惧して大坂攻めを決意したとの話もあります。実際並外れた巨漢だったとの資料もありますが、当然ながら体躯だけで器量は判断できません。独活の大木という例えもありますしね。幼少期に伏見城から移って以来、大坂城から出たのはこの会見が初めてだったことから見ても、過保護に育てられたのは確かでしょう。大坂の陣に至る過程でも、秀頼自身がどのように考えていたのかさっぱり分かりません。淀殿や家臣の意見に引きずられるだけだったと考えるべきです。
23歳といえば若いですが、戦乱の世ならばとっくに初陣を済ませている年齢です。戦を知らないことは本人のせいではないですが、およそ将才ある人物は初陣でもその片鱗を見せるケースが少なくないです。最後まで陣頭に立つことなく滅んだ秀頼は、義兄秀次が粛清されて以降公家化していった豊臣家の中で武人としての素養を身に着けることなく成長し、天下人たる気概も持ち合わせていなかったということでしょう。もちろん置かれた環境による部分が大きいとはいえ、秀頼自身に武将としての自覚が欠けていたと思われます。でなければ自論を主張せず、周囲に唯々諾々と従うなどあり得ません。
もしも秀吉死後傅役になった前田利家が、あと10年長命だったなら違っていたかもしれません。利家ならば決して武人としての教育を疎かにしなかったはずです。武芸に目覚めて鍛錬し武経七書を嗜むなどしていれば、堂々たる体躯を活かして豪勇を備えた武将になっていた可能性もあります。ただ本人が熱意を示さなければ成り得ないので期待薄かもしれませんね。せいぜい今川氏真クラスで終わっていたような気がします。
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