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桶狭間後の今川義元 その12

畠山高政の敗走を知った将軍足利義輝は方針を変更、二俣城攻略を目指します。また松平元康に越前の朝倉攻めを命じます。これは越前に侵入した一向一揆に合力して朝倉義景を脅かすことで、最大の同盟者上杉輝虎が越後へ撤退せざるを得ない状況を未然に防ぐという目的がありました。

二俣城攻囲戦
南下するかと思われた義輝が東進したことを知った武田信玄は、その目標は二俣城と判断して曳馬城に入っていた諏訪勝頼と内藤昌豊を救援に向かわせます。急行軍で到着した勝頼は城外に布陣、幕府軍を待ち構えます。勝頼は陣頭に立って奮戦しますが義輝の直轄軍は精強で、与力の武将たちも将軍自らの出陣に奮い立って戦意旺盛であり、これを打ち破ることができませんでした。勝頼は昌豊に従って籠城策を取り防戦に徹し、義輝は二俣城を攻めあぐねて戦況は膠着します。

朝倉征伐
信玄に敗れた元康は武田軍の西進に備えながらも京を預かる松永久秀と善後策の構築に余念がありませんでした。また大坂・堺にも往来し、捲土重来を期する下準備を進めていたところに義輝から越前攻めの命が届いたのです。武田軍の精強さを目の当たりにした元康は、これに対抗するには大量の鉄砲が必要と判断して買い付けを急ぐいっぽう、一向一揆が幕府軍に敵対することがないよう本願寺顕如に工作を依頼していました。また久秀は朝倉攻めに備えての調略を若狭の諸将に対して開始していたのです。
このころ朝倉義景は内紛で弱体化した若狭守護武田氏を従属させて幕府軍に対する防波堤としての役割を期待していましたが、これは同盟関係にある信玄と同族であることを過大に評価したものでした。実際には朝倉への従属を快く思わない重臣が多く、これに目をつけた久秀は粟屋勝久・逸見昌経などを自陣営に引き込んでいました。
元康は1万5千を率いて西近江路を北上、国吉城の勝久を先鋒に越前へ攻め入ります。主力を10万を超える一向一揆勢に向けて一進一退を繰り返していた義景は遂に自ら出陣しますが疋壇城・金ヶ崎城が瞬く間に落とされます。不利を悟った義景は一乗谷に向け撤退しますが元康はこれを猛追、朝倉軍は戦意を失って総崩れとなり義景は辛くも一乗谷城へ逃げ帰るものの抗しきれず自刃、ここで戦国大名朝倉氏は滅亡します。一向一揆と対峙していた朝倉軍も一乗谷落城を知ると崩壊、元康は当面越前を本願寺顕如の影響力下におくことで一向一揆に自治させ、北近江の浅井討伐に向かうことになります。

カギを握る北条の思惑
一時は圧倒的に有利と思えた信玄ですが、義輝の出陣と朝倉の滅亡によって風向きが変わります。諏訪に居座った上杉輝虎には兵站に不安があり、一気に南下するとは思えませんが何をしでかすかわかりません。西に向かいたい信玄は一刻も早く掛川城を落として幕府軍の士気を挫くことが肝要と考えますが、これ以上の兵力分散は避けたいところです。そこで北条氏康に遠江への侵攻を認め、掛川城攻略のため出陣するよう要請します。しかし氏康は関東経略に注力しており大軍を差し向ける気はなく、蒲原城の笠原康勝に遠江進出を命じただけでした。関東での輝虎の影響力をほぼ排除することに成功して残すは安房の里見と常陸の佐竹のみとなった今、氏康の眼は関東完全制覇後に向けられていました。いずれは信玄と雌雄を決する時が来ることは予想できるので、その際信玄の勢力が余りにも強大だと不利です。同盟は堅持しながらも信玄の天下取りに加担するつもりは毛頭なかったのです。さらに氏康のもとに輝虎が諏訪を出て杖突峠を越えたとの知らせが入りますが、若神子の氏邦・綱成は全く動こうとしませんでした。これも氏康の命であり輝虎を牽制するだけで直接対決するつもりはなく、その目的はむしろ将来の佐久地域領国化に向けての布石だったのです。ここまでの情勢は稀代の戦略家氏康の目論見通りに動いていました。

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戦国時代

Posted by hiro