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海道一から天下一へ その4

佐和山城を前にした明智光秀は巨城と化したこの城を落とすのは困難と考え、石川数正に開城を迫りますが数正は拒否します。そこで光秀は力攻めを愚として付城を築き始めます。包囲して兵糧攻めにしながら遠からず京に入るであろう毛利輝元を待つことにしたのです。

佐和山城包囲
数正の兵力は1万に満たないものでしたが、光秀および毛利との最前線を任された城兵の指揮は非常に高く意気軒昂でした。万全の包囲態勢を整えた光秀のもとには武田元明の挙兵と、これに呼応した京極高次が山本山城を占拠したという知らせが入ります。これで細川藤孝の急速な南下がなくなり、光秀は焦ることはありませんでした。しかし、ここまで何の動きも見せていない徳川家康が救援に駆けつける可能性は排除できないため、背後の関ヶ原を睨む城山に重臣斎藤利三を配します。光秀は決して事態を楽観視しておらず、家康を警戒していたのです。

家康の機動
光秀の動きに家康は全く反応を示さず、領国を固めて捲土重来を期すかのような姿勢を見せていましたが、真意は別にありました。密かに出陣の準備を進めていたのです。光秀に家康出陣の報がもたらされて程なく、近江・伊勢国境に軍勢が現れたとの知らせが入ります。本多忠勝でした。さらに大軍が後続しているとわかると光秀はこれを家康の本隊と判断、迎撃の準備に入ります。先鋒として津田重久を充て、佐和山城の抑えに稲葉一鉄・氏家直昌を残して自らも南に向けて陣を整えるいっぽう、城山の斎藤利三にも急遽合流を命じます。しかし光秀が家康と判断した軍勢は前田利家であり、家康は犬山城の斎藤利治を先鋒として関ケ原を経て佐和山城へ向かっていたのです。武田との激闘を経験した家康の高速機動力は、まさに信玄譲りのものになっていました。

佐和山城の戦い
重久と忠勝は高宮でぶつかり、武勇に優れる両者の戦いは激しいものになりますが、後方から利家率いる精鋭が参戦すると重久勢は支えきれなくなります。光秀は自ら重久救援に向かいますが、かねてから家康に通じていた一鉄・直昌がその背後に襲い掛かります。挟撃される形になった光秀は苦戦を強いられ損害が増えていきますが城山から駆け付けた利三が到着すると、これを見た石川数正が城から打って出て乱戦となります。利三の奮戦は凄まじいもので直昌が安田国継に討ち取られるほどでしたが、ここで新手の軍勢が現れたことで勝敗が決します。犬山城を出撃していた斎藤利治が関ケ原を抜けて加わったのです。同族であり義兄弟でもある利治と利三の戦いは激烈を極めますが、腹背を突かれた利三勢は疲弊し利三も討死します。これによって光秀は完全に包囲され袋の鼠となりますが、溝尾茂朝が血路を開いて光秀を北へ逃したのち討死、光秀は京極高次を頼ろうと落ち延びることになります。家康は大勢が決した後戦場に到着、悠々と佐和山城に入ります。織田・三好・朝倉・浅井そして武田と渡り合ってきた家康にとって、こと野戦において光秀は敵ではなかったのです。

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戦国時代

Posted by hiro