桶狭間後の今川義元 その25
将軍足利義輝は当初から関ケ原を決戦場と想定していました。そこで諏訪勝頼が大垣城に迫ると出陣を下知、彦根でとどまり落城の知らせを受けるや否や踵を返して先着しており、しかも後方には上杉輝虎の越後勢も続いていたのです。
赤備えの奮戦
義輝がすでに着陣している事実を知った山県昌景は誘き出されたと判断、勝頼に南宮山に登って体勢を立て直すよう急使を出します。しかし事情が分からぬ勝頼は一刻も早く関ケ原に進むことを優先してこれを無視します。細川藤孝勢を突破したが故、安藤守就も昌景に続いて関ケ原に入っています。退くこともままならずここを死に場所と決めた昌景は続々と松尾山を下りてくる義輝直轄軍にぶつかっていきます。ここで強行突破し背後に回り込めば挟撃できる可能性が出てきます。さすがの赤備えも数に勝る幕府軍に漸減されていきますが、何とか血路を切り開いた昌景の目に入ってきたのはまたしても意外なものでした。城山から押し寄せる新たな軍勢、しかもそこに翻っているのは「毘」の旗印だったのです。
武田軍の敗走
全く予期していなかった上杉勢の出現に昌景は自らが捨て石となって勝頼を逃がすべく迎え撃ちます。しかし義輝は勝頼を捕捉するべく一旦南北に分かれた細川勢とともに守就を猛撃、士気が阻喪した安藤勢は支えることができずに瓦解します。関ケ原に猪突してきた勝頼の本陣は、氏家・稲葉勢に退路を断たれてまさに袋の鼠でした。もはや勝頼の所在すら掴めぬ昌景でしたが大垣城への後退がままならない場合には伊勢街道を南下するしかないと判断、この確保を目的にした撤退戦に転じます。しかしさすがの赤備えも輝虎率いる無傷の精鋭を相手に持ち堪えることはできませんでした。もはやこれまでと昌景は柿崎景家に向かって突撃しますが押し包まれて遂に討たれます。勝頼も俄かに逆襲に転じた幕府軍の動きに前線での異変を感じますが時すでに遅く、完全に包囲されます。退路を断たれたと判断した安部宗貞は伊勢街道への転進を献策、勝頼はこれに従い包囲網の突破を図ります。さすがに勝頼の馬廻は強く一丸となって幕府軍の右翼を突破、伊勢街道をひたすら駆けに駆けて逃げ延びることに成功します。しかし長島一向一揆に行く手を遮られ、這う這うの体で木曾川を渡り清洲城に辿り着いた勝頼が従えていたのは総勢2万のうち僅か500という惨敗でした。
信玄の起死回生策
勝頼の関ケ原での大敗は信玄を窮地に陥れます。中山道筋を幕府方に押さえられ、伊勢に長島一向一揆が跋扈しては畿内と東海との連絡が遮断されている状態です。それよりも股肱の臣昌景を失ったことが痛恨事と考えた信玄は、甲府の弟信廉を呼び寄せて勝頼を補佐させ領国経営を建て直し、失った戦力の回復に努めさせることにします。自身は義輝と輝虎の動向を注視しながらも松平元康との対峙は継続して動くことはありませんでした。信玄は危機的状況を打開するために新たな調略を試みていたのです。標的は積極的に協力しない北条家中と、今川没落以降幕府方一部将の地位に甘んじている旧臣たちでした。さらに信玄は手元に確保している一乗院門跡覚慶を説得し、還俗して反幕府の旗頭とするよう画策していたのです。
武田勝頼 試される戦国大名の「器量」 (中世から近世へ) [ 丸島 和洋 ]価格:2,090円 (2023/8/30 00:39時点) 感想(0件) |
ディスカッション
コメント一覧
まだ、コメントがありません