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悲劇のナンバーツー

1959年4月27日、毛沢東が中華人民共和国主席(国家主席)を辞任、全国人民代表大会常務委員長で中国共産党内序列2位の劉少奇が後任となりました。人民民主主義国家の建設から唐突に社会主義への移行を図り、無謀な大躍進政策を強行した結果国内の混乱と疲弊を招いた責任を取らざるを得なくなったのです。しかし5年余りの雌伏期間中、民衆に対して自らの神格化を巧みに進めるとともに劉や中央書記処総書記として経済調整を主導した鄧小平に走資派のレッテルを貼り、彼らを反革命分子として大学などの教育機関を通じ若者の啓蒙に成功、党や国家機関に対する造反に駆り立てることで復権します。所謂文化大革命の始まりです。

この劇的な復活を牽引したのは、毛の純粋な危機感だったでしょう。このままでは資本主義に侵されて理想とする国家像とかけ離れてしまうとの。しかし、どう考えても毛の路線は誤りであることを死に至るまで気付くことがなく、頑迷なまでに貫き通したことは中国の大きな不幸ですね。革命家としては偉大だったかもしれませんが政治家としては誤りの連続であり、晩年に及んで時代錯誤ともいえる最大の惨禍を国にもたらしたのですから。まさに老害そのものでしょう。文化大革命の10年で失われたものは、日本における「失われた10年」の比ではないですからね。数千万に及ぶ自国民を死に追いやるなどという暴挙は、ヨシフ・スターリン以外例を見ないです。これほどの暴君が、ほぼ同時期に存在したことには驚きを禁じ得ません。

国家主席となっていた劉少奇は激しい攻撃に晒されて失脚します。日本では長い間消息不明とされ、その死が明らかになったのは没後10年を経てからです。監禁されたうえ暴行を受け、病状が悪化しても放置されて汚物は垂れ流し状態という悲惨な死は、一党独裁の強権国家に人道的配慮は皆無であることを思い知らされます。スターリンのようにスパッと銃殺してくれたほうが遥かにマシですよね。いっぽう鄧小平は復活と失脚を経て、毛沢東の死後最高権力者に登り詰めています。毛が鄧を「まだ使える」として党籍を剝奪しなかったとされていますが、最終的に鄧が文化大革命に引導を渡したことを考えると皮肉なことです。やはり毛は老耄していたのではないでしょうか。

個人的には所謂走資派を主導していたのは鄧小平だったと思います。ただ毛沢東の政治生命が断たれるようなことがあれば、ナンバーツーである劉少奇がトップになるのが既定路線である以上劉を自派に引き込むことが必須と考えるのは当然です。そもそも毛の社会主義への方針変換は、劉に限らず党指導層の多くを困惑させるものであり、多数派を形成するのは然程難しいことではなかったでしょう。毛の巻き返しを許したのは大衆人気の高い周恩来国務院総理(首相)が毛の側に付いたこと、改革は社会主義の否定ではなく行き過ぎの是正に過ぎないことを知らしめるスローガン、つまりは思想的裏付けを打ち出せなかったことが大きかったのではないでしょうか。

それにしても、毛沢東の攻撃に対する走資派の反応は緩慢に見えます。手を拱いていただけというような。劉少奇は最大のターゲットが自分であるという事実に気付くのが遅かったようです。ここに劉という人物の限界が見えます。私の劉に対するイメージは優秀な実務官僚というものです。劉邦(漢の高祖)にとっての蕭何でしょうか。カリスマのない劉は毛を追い落とす気はなく、経済を好転させて人心を掴めば毛も急進的な思想を改めざるを得なくなり、その場合毛を精神的な支柱として復活させるつもりだったのではと思えるのです。ところが毛は劉らの政策を、自身の権威を貶めるものとして打倒に動いたということでしょう。毛の腰巾着である林彪・康生や四人組と対峙するための求心力が劉には欠けていました。それでも軍に影響力を持つ元老には大躍進政策に批判的な者も多く、早い段階で対決する決意を固めていたなら勝機はあったかもしれません。しかしナンバーツーとして毛を支え続けてきた劉は、毛を信奉する気持ちを捨てきれなかったのではないでしょうか。

毛が劉をナンバーツーに据えたのは、その地位を脅かす存在には成り得ないと思っていたからでしょう。それは劉もわかっており、忠実な側近として支えることに徹しようとしていたはずです。豈図らんや毛の失政を尻拭いせざるを得なくなり、それが一定の成果を上げ始めたことから敵視されてしまった… 不幸なことですが、おそらく一党独裁下の血生臭い暗闘を制するだけのカリスマを持ち合わせなかった劉の末路は、歴史的には必然だったと考えます。

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Posted by hiro