指導のありかた今昔
反則タックル事件で私が許せないのは、指導者が悪質で危険極まりないプレーを選手に迫っている点です。大事に至らなかったのはたまたまであり、被害者が重度の障害を負うような結果になっていたらどう責任を取るつもりだったのでしょう? 加害者に責任を全て押し付け知らんふり? 指導者にあるまじき姿ですが、事件後の対処を考えるとなくはないですね。自らが手を下すのなら責任は自分で取ることになるので、まだ許されるでしょうが。
近年様々なハラスメントが問題にされます。勿論セクハラ行為などは論外で当然非難されるべきものではありますが、誉め言葉のつもりが相手の受け取り方次第でハラスメントとされてしまう場合もあるようで、このあたりは難しいですよね。全く同じ言葉をかけられたとしても、普段抱いている心象によって真逆の反応をする可能性すらあります。これが教育現場となると、さらに難しいだろうことは容易に想像できます。声を荒げただけでもハラスメントとされかねないようではやりにくいでしょうね。勿論常識も時代の移ろいに伴って変化するものですから、合わせていかなければならないのは当然のことです。
私は体罰を肯定するつもりはないですが、程度の問題だと思います。勿論病院通いしなければならないほどなら明らかに行き過ぎですが、頬っぺたをつねられたくらいで騒ぐ親もいるような現状は如何なものかという気がします。昭和生まれの私の時代、体罰は受け入れるべきものでした。柔道の授業で受け身の本数をごまかしてローキックをもらったり、当事者でないにもかかわらず連帯責任としてビンタを食らったりしたものです。しかし親に話したことなどありません。悪いものは悪いと言われるだけと分かっていたからです。
私の親世代は戦中まだ幼かったとはいえ、祖父母となると従軍した世代です。家長の権限が強く、家族はこれに従うのが当然のことであったうえ、ナショナリズムの高揚が日本は皇国であるという意識を一般大衆にも植え付けて、上官の命令は絶対という軍隊式教育を受けてきたのです。悪いことをすれば罰を受けるのが当たり前であり、痛さでそれを知らしめる体罰は日常茶飯事だったでしょう。現代ならば完全に虐待に当たるような折檻さえ家庭によっては珍しくなかったことを考えると、鉄拳制裁くらい何とも思わなくとも不思議ではないのです。
もう一度言いますが、体罰を肯定はしません。しかし言葉だけではわからない場合もあると思うんですよね。反省の色が全く見えなかった者が、痛みを知って初めてそれだけ悪いことをしたと理解することもあるのではないでしょうか。結果的に行き過ぎだったかどうかはケースバイケースですから一概には言えませんが。
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