海道一から天下一へ その31
伊達政宗の弟小次郎を迎えた北条ですが、幕府との緊張緩和を優先して再び佐竹征伐軍を起こしはしませんでした。小次郎受け入れで伊達を完全な従属化に置こうとする北条と、厄介払いをしたうえで援助を引き出そうとする政宗の思惑とは認識にズレがあったのです。
忠次、信康を讒言
徳川家康の嫡男信康の処遇に悩んだ石川数正が駿府城代酒井忠次と会見すると、事態は急展開します。なんと忠次が家康に対して信康に謀反の疑いありと訴えたのです。これは以心伝心とも言える二人の暗黙の了解に基づくものでしたが、各々の本意には微妙な食い違いがありました。板挟みになった数正は、信康の苦衷を放置できない赤心を吐露して信康に殉じる覚悟を忠次に示します。忠次が家康を裏切ることなどありえないと承知のうえで、自らが主導したものとして責任を取るつもりでした。ところが忠次は数正の心情を理解したものの、数正に謀反人の汚名を着せるなど思いもよらなかったのです。家康に従い畿内を転戦してきた数正と違って東海を任せられてきた忠次は度々信康の短慮に振り回されており、その関係は決して円滑なものではなかったのです。そのため忠次の訴えは、数正の真意とは程遠い信康の弾劾という性質が色濃いものとなって家康のもとに届くことになるのです。
公方をめぐる軋轢
伊達への影響力を増したと考えた北条氏政は、幕府に命じられた山中城破却を実行しないのみならず、小田原城及び関東一円に広がる支城ネットワークの拡充を急ぎます。さらに当主氏直の上洛も理由をつけて引き延ばし、海上からの小田原封鎖を妨げるため水軍の増強にも乗り出します。さらにかねてより願い出ていた吉良氏朝の関東公方就任を改めて幕府に要請します。これは古河公方が断絶状態にあることで、関東管領が一地方役職となることを嫌ったものでした。これに対して家康は、従来通り氏朝を公方に就けることを拒否します。幕府の全国一元支配を目指す家康にとって、その障害に成り得る公方復活など論外であり、関東管領は幕府に直属するものとのスタンスを示したのです。幕府との埋められない溝を感じた氏政は、この後徐々に主戦論に傾いていくことになります。
起死回生を図る氏政
きな臭くなる情勢に氏政は焦ります。幕府と全面対決するにはやはり上杉を味方に引き入れなければなりません。そこで氏政はウルトラCとも言える奇策に打って出ます。それは関東管領を上杉に譲るというものでした。謙信存命時あれほど関東にこだわった上杉ですから、餌としてこれほどのものはないでしょう。勿論それは名ばかりのものであり、関東の実効支配を譲る気は毛頭ありませんでしたが、家康主導の幕府を打倒した後は京を上杉に任せても良いと。そして自らが関東公方となって東国を抑え、中央から自立した存在になることは不可能ではないと考えたのです。
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