海道一から天下一へ その1
将軍足利義輝の横死は弟義昭にとっても寝耳に水でしたが、義輝に男子がいないという明白な事実から後継者は自分より他にないと考え将軍として振舞い出します。各地に御内書を発して自らの一刻も早い上洛に向けて協力するよう求めたのです。
義昭の朝廷工作
また義昭は長宗我部元親の保護下にある土佐一条氏を通し、その本家に当たる関白一条内基を動かすことで早急な将軍宣下の実現を図ります。さらにかつて左馬頭叙任に尽力した吉田兼右の子兼見に朝廷における多数派工作を依頼するなど、筆まめな義昭は援助要請をあらゆる方面に伸ばしていました。いっぽう元親は義輝の死を失った所領回復の絶好機と捉えて義昭への将軍宣下を待つことなく軍事行動を開始、暫しの平穏は破られることになります。
朝廷内の対立
朝廷では将軍宣下を是とする関白内基と前関白九条兼孝に対して徳川家康・細川藤孝に近い近衛前久が強硬に反対、紛糾して容易に結論は出ませんでした。前久は義輝の死に義昭が関わっていた疑いがある以上将軍就任を認めるわけにはいかないとし、当面相伴衆の合議によって政権を運営すべきと主張しましたが、これは家康・藤孝の意を受けてのことであるのは明白でした。また家康は坂本会議に出席せず中央と距離を取る姿勢を示していた上杉景勝を自陣営に引き入れることで多数派を形成し、政局を有利に運ぶことを目論んで景勝の懐柔を図っていました。現状では義昭の対抗馬は事実上おらず、結果的に義昭への将軍宣下が避けられなかったとしても、それまでに自陣営の優位を確立しておきたかったのです。
毛利家中の軋轢
義昭はまた毛利輝元に対して自身を奉じての早急な上洛を求めます。輝元は意欲を示しますが家中には慎重論が多く、特に吉川元春は強硬に反対します。すでに今川氏真の背後に義昭がいたという噂は広まっており、その疑いが晴れない限り大義はなく上洛は火中の栗を拾うようなものだと。小早川隆景も少なくとも将軍宣下を待つべきと輝元を説得しますが、輝元はこの機会を逃すまいと内々に出陣の準備を進めるとともに、明智光秀に近く義昭を奉じて上洛する旨を知らせて共闘を呼びかけます。これを知った元春は上洛に同行しないと宣言、輝元との対立が決定的となり隆景は両者の板挟みになります。
北条氏政の思惑
関東管領北条氏政は将軍義輝に万一のことがあった場合、独自の方策を考えていました。古河公方足利義氏を後継とすることです。南朝の衰退以来幕府と対立関係にあったとはいえ成立期の鎌倉府には幕府のスペア的役割もあり、古河公方に将軍職を継がせることは不自然ではありません。もちろん氏政には義氏を京に送り込む気は毛頭なく、名ばかりであっても自身の庇護下にある義氏を将軍に就ければ新たな鎌倉府を幕府に取って代わる存在として整備し牛耳ることができると。義輝の不慮の死によって氏政は、その目論見の実現に向けて動き始めたものの肝心の義氏が病死してしまいます。早世していた嫡男梅千代王丸以外に男子はおらず氏政の構想は頓挫しますが、氏政は義兄弟にあたる吉良氏朝の擁立を模索します。足利御一門筆頭である吉良氏の家格は非常に高く、庶流である今川を上回るものです。ほぼ北条の家臣化しているとはいえ、家格の点で将軍家断絶の際には後を襲うに相応しいと見倣わされていた名門です。また北条は幕府政所執事を世襲してきた伊勢氏の一族であり、朝廷とのパイプも持っていましたが関東に地盤を築いて久しく、京に近い諸大名のそれと比べて太いものとは言えなくなっており、氏政の工作は思惑通りに進まなかったのです。
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