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海道一から天下一へ その38

天正20年(1592年)に入り、幕府は遂に関東平定のため大軍を催します。その総勢は25万にも及ぶものでした。

幕府軍の戦略
東海道を進む徳川家康率いる主力は、まず山中城を突破してから韮山城・足柄城を無力化して小田原城へと向かいます。麾下には小早川秀康・吉川広家・宇喜多秀家・細川忠興・斎藤利治・筒井定次・依田信蕃ら。また九鬼嘉隆を主将とする水軍には長宗我部元親・十河存保・加藤嘉明・藤堂高虎・蜂須賀家政といった四国勢が名を連ね、伊豆の北条水軍を排除し小田原を封鎖します。さらに中山道から碓氷峠を経て北関東に入る別働隊は、前田利家が毛利輝元・金森長近・真田昌幸・小笠原貞慶らを従えて北条方諸城を攻略しつつ南下、上杉景勝には三国峠から上野に進出、沼田城・白井城を落として北方隊を援護するよう命じます。また佐竹には伊達の動きを抑えつつ北から圧力を加えさせ、里見義康には水軍をもって相模湾に進出し北条水軍を牽制させます。このように多方面からの同時進攻で小田原城を裸にし、難攻不落と謳われる堅城を時間をかけて自落に追い込む作戦でした。

持久戦覚悟の小田原
対する北条の基本戦略は持久戦でした。城下町ごと惣構えで囲い込んだ小田原城は自給自足が可能であり、長期の籠城戦にも耐え得るからです。しかし当主氏直は、小田原に兵力を集中することには懐疑的でした。幕府側の兵力がどれほど莫大なものになるかわからず、いつまで籠城が続くかも不透明です。民百姓も養わねばならないからには、あまりに多くの軍兵を抱え込んでは糧食に不安が生じるからです。また氏照・氏邦兄弟は野戦も辞さない積極策を主張していました。そこで氏直は各方面の重要拠点にはある程度の兵力を持たせ、籠城策にこだわらず主将の判断で野戦に打って出ることも可としたのです。それによって幕府軍を漸減できれば小田原への圧力は低下し、継戦意欲を削ぐ効果も期待できるとの判断でした。実のところ氏直は父氏政が野戦に自信がないことを承知しており、小田原から打って出る気はないと確信していました。そこで氏照・氏邦らにも裁量権を与えて不満を反らそうと考えたのです。両者の折衷案と言えるこの策に氏政も同意し信濃・上野は氏邦が、武蔵・下野は氏照が、駿河は氏規が管轄することになります。

上杉の動向
幕府・北条双方から当てにされていた上杉景勝は、どちらにも色よい返事をしながらも肚の内を隠していました。旗幟を鮮明にするにはまだ早いとの判断です。幕府軍の陣容を知っている景勝は幕府に分があると見ていましたが、一門の結束に綻びがなく主要城郭を拡充して支城ネットワークを強化した北条の長期籠城を見越した戦略が功を奏し、幕府軍を撤退に追い込む可能性ありとする直江兼続の報告を受けてのものでした。そのため動員を済ませながらも理由をつけて動かさず、機が熟した時点で参戦しても遅くはないと考えていたのです。幕府軍優勢ならば三国峠を越えて上野・下野を制圧し、北条有利なら幕府軍の側面を突くも北信へ出て背後を襲うも良し、いずれにせよ恩を売って利を得ようという策でした。愚直なほど着を重んじた謙信と違って合理的な領国経営を目指して旧弊を排した景勝は、掴みどころがない中に冷酷かつ非情さを秘めた政治家的人物になっていたのです。

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戦国時代

Posted by hiro