本能寺の変
天正10年6月2日(新暦では21日)といえば本能寺の変、織田信長享年49才。幼い私が初めて覚えた歴史的事柄で、小学館か何かの子供向け伝記本で読みました。以来風雲児というイメージに憧れて自分もそんな人物になりたいという思いがあったのか、歴史に名を残すような業績がないにもかかわらず、なぜか49で死ぬのではないかと真剣に考えた時期もあったほどです。幸い杞憂に終わって母を悲しませずに済みました。
日本史上最大のミステリーとされる変の要因としては諸説ありますが、とどのつまりは明智光秀の出来心だったというのが私の推論です。信長を討って以降の行動からは、光秀に明確なビジョンがあったとは思えません。巷間言われる中でも黒幕存在説は、唯一足利義昭を除いてはないでしょう。秀吉、家康黒幕説は論外です。仮に義昭が糸を引いていたにせよ、彼を謀反に踏み切らせる直接の原因にはなりえない。自分も佐久間信盛のように使い捨てされるかもしれないという恐れ、羽柴秀吉の台頭に対する不安はあったに違いありません。怨恨説や四国説はこれらを補完するものでしかないでしょう。結局全ては光秀を全面的に信頼して無防備の状態で本能寺に入った信長の油断が招いたとみるべきです。とはいえ光秀にとっては信長を討ち取れたにしても、その確固たる後継者信忠が健在では単なる謀反人に成り下がるであろうことは明白です。その信忠までが、ほど近い妙覚寺に逗留していることで彼の出来心が助長されたのだと思います。信忠をも葬れたことで情勢を楽観視しすぎ、変後の行動が緩慢になったことが三日天下に繋がったのではないでしょうか。
それにしても信長の性格はかなり特殊ですよね。他人に対して苛烈で猜疑心が強い一方、大丈夫と決めてしまうと頓着しない。自信過剰な人間にありがちかと思います。浅井長政に裏切られて這う這うの体で京に逃げ帰った金ヶ崎の退き口は、その最たるものでしょう。そもそも政略結婚で成立した同盟など場当たり的なものが殆どで、反故にされるのも茶飯事だった時代の習わしです。長政離反の可能性を全く考慮せず、袋の鼠になるかもしれない危地に飛び込んだのですから。桶狭間にしても、たとえ勝ったにせよ今川義元をもし討ち漏らしていたら犬山城の織田信清あたりが反旗を翻していたのでは? そうなっていたら戦国の世はまだまだ続いていたかもしれません。ただ桶狭間の場合、手詰まりで他に打開策がない中での乾坤一擲ですので、信長の運の強さが勝利を呼び込んだのでしょう。偶然の重なりが時代を動かし結果的に必然になるのは、歴史上よくあることです。
本能寺までに何度も危機を乗り越えてきた信長ですが、きっと運を使い果たしていたんでしょうね。彼が健在だったら日本はどのようになっていたか興味深いですが、状況的にそれは不可能だったでしょう。私はそれよりも嫡男信忠が、もし京を脱出して再起していたら? に興味があるので、次回はそれを考察してみます。
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