ドゥーリトル空襲にみられる日米の差
1942年4月18日、空母ホーネットを発進した16機のアメリカ陸軍航空軍B-25ミッチェル爆撃機が日本本土を空爆しました。所謂ドゥーリトル空襲です。開戦からの連戦連勝に沸き立っていた日本国民に冷や水を浴びせるかのような突然の帝都空襲は衝撃的な出来事でした。この時点で日本本土に米軍機が飛来することを予期していた一般大衆は皆無だったことでしょう。しかし日本海軍中枢は、開戦前からその可能性を考慮し危惧していました。つまり全く想定外ではなかったのです。
とはいえ米軍にとっても日本本土空襲は極めてハードルが高く、長大な航続距離を有して中国から東京空爆が可能な陸軍のB-29は未だ試験飛行すらしていない段階であり、海軍の空母艦載機による空襲を成功させるには日本近海に接近しなければなりません。そこで哨戒線を張って厳しく監視し、米空母が進出したならば邀撃する方策が講じられていました。ではなぜまともな迎撃さえできず米軍機の侵入を許したのでしょうか?
まず陸軍のB-25に改修を施して飛行甲板上に搭載するという奇策ですね。大戦中でも陸軍と海軍が、こと戦略面で対立することはままありましたが、ある目的達成に向けて「これはいける」となったらわき目もふらず共に邁進する風通しのよさは日本軍には見られません。日本海軍ならば戦略目標達成のため陸軍の爆撃機を運用しようなどとは決して考えないでしょう。当時の米軍は日本同様独立した空軍を持っていませんから、陸軍と海軍の航空隊には少なからずライバル意識があったはずですが、それを越えて不可能と思えるような案件を短期間でクリアーしてしまう精力は「フロンティア精神」のなせる業でしょうか。
もうひとつは予定海域よりも遥か手前、400kmも離れた地点で存在を掴まれたと察するや否や、間髪入れず爆撃隊発進を命じたウィリアム・ハルジー中将の決断力でしょう。夜間爆撃を諦めるうえ予定より7時間も早い発進は航続距離に対する不安が増して危険に晒されることを厭わず、しかも乗員は陸軍の兵士ですからね。日本海軍の提督に同じ決断が下せたか疑問です。構わず予定海域への接近を図れば邀撃される恐れもあり、貴重な空母を危険に晒します。おそらく作戦成功の見込み無しとして反転退避することでしょう。さすが「ブル」の異名を持つハルジーの面目躍如といった感がありますが、ドゥーリトルはじめ搭乗員も困難に直面して大いに発奮したことでしょう。ここにもアメリカ人が尊ぶフロンティア精神が息づいているように思えます。
米空母発見の報に日本海軍は即刻対応するものの、陸軍の爆撃機が搭載されているとは夢にも思わず米軍機襲来は翌日と判断したことから全てが後手に回り、結果的に奇襲を受けるかたちになりました。ここでの対応については大きな誤りはなく想定されたガイドラインに則っていたと思いますが、その想定範疇を大きく超えた米側の戦術、作戦と運用についていけなかったということです。これはアメリカ人の気質が何をもたらすかについての想像力欠如と言えますが、たとえアメリカをよく知る連合艦隊司令長官山本五十六大将でも予想は困難だったでしょう。作戦成功はフロンティア精神の勝利ということです。
空襲による損害は軽微だったとはいえミッドウェー作戦に消極的だった海軍軍令部と陸軍が賛成に転じ、太平洋戦争の大きな転換点となるミッドウェー海戦に突入することになります。その呼び水になったと言えるこの作戦の意義は決して小さくないですが、推移を俯瞰するに日米の差を痛感します。これは国力ではなく軍部の体質差とでも言うべきものです。所属の垣根を越え小異を捨てて大同につく米軍と、陸海軍間のみならず陸軍内海軍内でも所属や派閥の違いで対抗意識が協力を妨げるきらいがある日本軍の差です。シビリアン・コントロールが確立されたアメリカに対し、そうでない日本では軍部内での勢力や発言力がそのまま政治力の多寡に直結するため足を引っ張り合う傾向が見えます。また海軍兵学校のハンモックナンバー重視にみられるような組織の硬直化が人材登用や発想の柔軟性を奪っていました。やはり組織という面でも日本軍は米軍に劣っていたと言わざるを得ません。日本に人材がなかったとは思いませんが、旧弊を排する進取の気性に欠けていたことが、適材適所に人材を配置して能力を最大限発揮させる機会を奪ったと言えるのではないでしょうか。
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