第三次ソロモン海戦たられば
1942年11月12日、ガダルカナル島のヘンダーソン飛行場を砲撃するべく鉄底海峡に突入した戦艦「比叡」「霧島」を擁する第十一戦隊を中核とする日本海軍挺身艦隊はアメリカ海軍第67任務部隊4群と遭遇、ここに第三次ソロモン海戦が始まります。この第一夜戦で挺身艦隊は米艦隊をほぼ壊滅させますが「比叡」を喪失、当初の目的だった艦砲射撃を行えずに撤退します。米側は司令官、次席指揮官ともに戦死しましたが、彼らのまずい指揮によって大損害を被ったにもかかわらず、結果的には戦略目標を達成したことになります。
闇夜での遭遇戦であり、両軍司令部とも不意を突かれて混乱しますが、やはり夜戦では日本側に一日の長があったようです。統一された指揮が不可能な乱戦の中、各艦独自の判断で最も近い目標に向かって猛射を加えて大損害を与えましたが、引き換えに比叡を失うことになったのです。
この原因として先頭に立っていた「比叡」が探照灯照射を行ったことがあげられます。10kmに満たない近距離からの反航戦であり、両艦隊がすれ違うまで5,6分しかかからないのでその必要はなく、「比叡」に攻撃が集中する結果を招いたと。しかし例え探照灯を照射せずとも的が大きい戦艦が集中砲火を浴びることは避けられなかったと思います。誤認による同士討ちが起きるほどの闇夜で、しかも超接近戦ですからね。私はそれよりも寧ろ、「比叡」が先頭に立っていたこと自体が問題だったと考えます。
挺身艦隊は夕方から断続的に猛烈なスコールに襲われ、22時頃になっても変針目標のサボ島を発見できずにいました。司令官阿部弘毅中将は砲撃困難と判断、反転して北上しますが間もなくスコールは晴れ、ガダルカナルの陸上観測所からも天候は良好との連絡が入ったため再度突入を決断して反転します。これによって作戦には40分の遅れが生じることになりました。また二回の転舵で隊形が乱れて前衛の駆逐艦隊が後落してしまい、司令部は射撃準備が整っても尚その事実を把握していなかったのです。
飛行場砲撃が第一義である以上、危険と不確定要素を考慮しても反転せず突入するべきだったでしょう。断続的なスコールが長時間続いたならば、そろそろ晴れるだろうと考えるのが自然に思います。もし天候が回復せず目標を通過してしまったとしても、どのみち帰投の為に反転するわけですから復路で機会を見い出せるかもしれません。夜が明けるまでには十分な時間があるので、敵艦隊が出現しなければ更に反復して機会を窺う位の決意が必要だったのではないでしょうか。阿部中将はこれまでに消極的な指揮で督戦命令を度々受けた人物です。ここでもその消極性が作戦の失敗に直結したと思います。仮に突入が40分早ければ米艦隊とは60~70km離れていたはずで、レーダーで捕捉される前に飛行場への砲撃は始まっており、隊形の乱れも生じていないはずですから、その後の遭遇戦で比叡が矢面に立つこともなかったことになります。ただ復路での砲撃は米艦隊の出現で叶わなかったことになるので、その効果は不十分だったと考えます。
日本海軍はその後も執拗にヘンダーソン飛行場の無力化を試みますが思うに任せず、挺身艦隊残存を中心に再編成して近藤信竹中将に指揮を委ね戦艦「霧島」を突入させますが、米新鋭戦艦「ワシントン」「サウスダコタ」を擁する第64任務部隊に阻まれ「霧島」が沈没、太平洋戦争初の戦艦対決は米側の勝利に終わるのです。
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