桶狭間後の今川義元 その27
武田信玄が京を放棄したことで畿内の反幕府勢力は大和と伊勢・志摩に限定されて大きく後退しました。病体を連戦で酷使した信玄の体調は思わしくありませんでしたが気力は衰えておらず、ここから反転攻勢の機を窺うことになります。
輝虎管領就任を固辞
京を回復した将軍足利義輝は、最大の功労者上杉輝虎を呼び寄せて一度廃止した管領職に就任するよう求めますが、輝虎は上杉家の家格は管領に相応しからずとして固辞、義輝は代わりに従三位左近衛中将に叙任して報います。また松平元康は徳川家康と改名、これは育ての親と言える今川氏との決別を内外に知らしめるものでした。依然大和には信玄と松永久秀が健在であり、その脅威に立ち向かうために輝虎・家康の二人は義輝にとって欠かせない存在だったのです。
新たな信玄の調略
局面打開を目論む信玄が目をつけたのは備前の宇喜多直家でした。尼子氏の滅亡によって中国地方での毛利氏の覇権は揺るぎないものになり、備州に乱立する国衆の最大勢力である浦上氏や三村氏も毛利に従属を余儀なくされていました。信玄は、その中で浦上傘下の有力国衆で自立心旺盛な直家に対して毛利に反旗を翻すよう働きかけたのです。直家を援助し備州に自立させて主筋の浦上氏を引き込むことができれば瀬戸内海での毛利水軍の活動に支障をきたし、大阪湾の制海権も揺らぎます。さらに長らく三好氏と争ってきた播磨の別所氏にも摂津に侵攻するよう促します。信玄は畿内の支配再構築のためには大坂本願寺と堺を屈服させることが肝要と考え、陸海から圧力を加えようと目論んだのです。
宇喜多氏の自立
直家は浦上宗景の備前制覇に大きな功績を上げましたが、宗景が毛利に屈服したことに不満を持っていました。信玄の斡旋で別所長治と同盟した直家は、兄弟間の相克で没落した宗景の兄政宗の孫久松丸を擁立して宗景に敵対します。備前での影響力を拡大していた直家の離反は美作や播磨にも波及し、完全な戦国大名化を果たしていない浦上氏はこれを統制できなかったのです。
いっぽう播磨では長治の叔父重宗が武田への同心に反対、ここでも国衆は両陣営に分かれて敵対することになって長治は思惑通り畿内へ進出することはできずに争乱状態となります。
浦上毛利に救援を要請
劣勢に陥った宗景は毛利輝元に援軍を要請します。これに対し輝元は、山陽道を管轄する小早川隆景が摂津に滞陣していることから備中の三村元親に出陣を命じて宇喜多勢を撃退させることにしますが、これを知った直家は三村勢が天神山城に向かうのを待たずに益原に進出、奇襲をかけ散々に打ち破って元親を岡山城に敗走させます。この勝利で威信を高めた直家は、さらに浦上方国衆の切り崩しを進めて勢力を拡大し、堅城で支城も多い天神山城攻めに入ることになります。
元親の敗退に危機感を覚えた輝元は福原貞俊・粟屋就方に直家討伐を命じるとともに、山陰道を統括する吉川元春にも美作方面から圧力を加えさせることになるのです。
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