海道一から天下一へ その6
中国地方の覇者毛利輝元の惨敗は、それまでの勢力図を大きく塗り替える大事件でした。反家康陣営の盟主から転落、輝元は毛利家中での求心力をも低下させることになります。
家康、京に復帰
直接干戈を交えることなく輝元を敗走させた家康は、満を持して京に入ります。まず防御に不向きな京における拠点として二条御所を改修し、本格的な近世城郭に変貌させる工事に着手します。また相伴衆を招集して今後の政権運営についてのコンセンサスを得ることを目指します。すでに第一人者の地位を確立した家康ですが、当面自らが突出することを避け、相伴衆の合議によって決する方針を掲げます。これには諸勢力の警戒を和らげる目的がありましたが、行方知れずとなっている足利義昭の処遇をどうするかという問題が大きく関わっていました。
佐和山会議
佐和山城に集まったのは家康と細川藤孝のみで上杉景勝は今回も越後を離れませんでしたが、すでに家康との接近を図っていた景勝は会議を家康に一任します。輝元にはあえて参加を呼びかけず相伴衆の地位を据え置きましたが、明智光秀に代わる実力者として前田利家を引き上げます。このため輝元の意向にかかわらず相伴衆の主導権は完全に家康が握ったのです。また義昭については安否が確認できるまで棚上げすることになります。
義昭の処遇
室町幕府に代わる統治機構のあり方を模索していた家康は、自身が足利将軍家を継ぐ気はありませんでした。しかし仮に義昭が落命したとなれば、将軍空位のままで良いのかという声が上がることは目に見えています。関東管領北条氏政は、しきりに吉良氏朝を立てるよう働きかけていましたが、家康は氏朝の武蔵吉良氏はもともと鎌倉公方家の一門で傍流であるとの理由で認めませんでした。関東一円に根を張る北条は、全国一元支配を目指す家康にとって将来その勢力削減に手をつけなければならなくなるのは明白であり、この段階でその威信をさらに高めるような方策は論外だったのです。ところが程なくして義昭が若狭に健在であるとの情報が入ったことで局面は変化します。義昭は将軍宣下を結局受けていませんが、朝廷が一度は14代将軍と認めているのも事実であり、義昭自らがそれを大きく喧伝していたこともあって巷間では将軍と受け取られています。そこで家康は、将軍であって将軍でないとも言えるグレーゾーンにある義昭の存在を逆手に取って放置することにしたのです。義昭が復権を画策するとしても、毛利が力を失った以上義昭を奉じて立ち上がる勢力の影響力は限られるでしょう。そのためにも毛利の再起を防ぎ、義昭に与して四国を席巻した長宗我部を屈服させることが喫緊の課題でした。
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堺の秀吉
その後、前将軍義輝が幕府直轄地化を宣言した畿内は利家に与えられることになります。また讃岐から逃げ帰った荒木村重や、播磨を任されながら毛利に降った和田惟政は利家の与力として組み込まれます。これ以降利家は藤孝とともに家康を支える両輪となるのです。まず利家が手を付けたのは堺の処置でした。小早川隆景の家臣で依然堺に居座る木下秀吉は織田家臣時代の同輩であり、彼を良く知る利家はなんとか味方につけようと、堺を攻めるのではなく交渉によって打開することを家康に提案して同意を得ます。これには、かねてから家康と昵懇であった堺の豪商今井宗久や津田宗及が秀吉を高く評価する旨聞き及んでいたからです。海千山千の彼らに短期間で取り入った秀吉という人物に家康も興味を持っており、また家康を経済的にも支えていた堺を戦禍に巻き込むことは本意でないことから、まずは利家に任せることにしたのです。
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