桶狭間後の今川義元 その28
宇喜多直家が児島を押さえたことで毛利水軍の制海権が揺らぐと同時に、摂津では荒木村重が城主池田勝正を追放して池田城を奪取、別所長治に呼応したことで播磨での戦況は武田方有利に傾きます。そこで武田信玄は大坂本願寺の背後を遮断するために拡充を進めていた水軍の派遣を決めるのです。
武田水軍の進出
村重が高槻城に迫ったことを受けて若江城の小早川隆景が救援のため出陣しますが間に合わず、茨木城までもが村重の手に落ちます。その間伊勢湾を出撃した土屋貞綱率いる武田水軍は紀伊水道を北上、この出現を全く予期していなかった毛利水軍は易々と大坂湾への侵入を許してしまいます。虚を突かれて統率が取れず、安宅船を擁した武田水軍に対して効果的な迎撃ができなかったのです。武田水軍は大した損害を受けることなく木津川口まで達し、大坂・堺を封鎖する構えを見せます。これに対して隆景は瀬戸内の水軍を糾合して撃破しようと目論みますが、児島を宇喜多勢に扼されたため思うに任せません。それでも乃美宗勝を将とする小早川水軍は小早の機動力を生かして攻撃を仕掛けますが撃退されます。ここで信玄が村重と呼応して隆景を駆逐すれば大坂本願寺は封鎖されることになり、幕府にとって難しい局面を迎えることになります。救援に赴くであろう幕府軍を捕捉殲滅しようと信玄は考えていました。
信玄倒れる
武田水軍に木津川口を押さえられたことで信玄の出陣を予期した隆景は、急ぎ若江城に戻るとともに村重牽制のため将軍足利義輝に援軍を要請します。村重が一気に南下して挟撃されることを恐れたのです。これに応えて義輝は徳川家康を派遣、家康は勝竜寺城に入って村重の動きを封じることになります。
信玄は摂津に向けて押し出す目的で出陣を下知していましたが、大量に喀血して倒れます。侍医でもある御宿友綱は療治に専念しないと命にかかわると制止しますが、自らの死期が近いことを悟った信玄は譲りません。困った友綱は一条信龍と馬場信春に相談、二人も今信玄を失うと武田家は立ち行かぬと友綱に同意します。彼らは一計を案じ、摂津に出陣すると称して撤退することにしたのです。まずは諏訪勝頼の清洲城まで退き、容体次第で甲斐に帰国させて回復を待つという判断には後継者としての勝頼に対する不安が垣間見えます。信龍は伊勢の穴山信君に使者を発して長島一向一揆が遮ることがないよう牽制させます。大和を発った武田軍は妨害を受けることなく尾張に入り、信玄は当面清洲城で静養することになります。
松永久秀の窮地
武田軍の進出に対する防戦の準備を進めていた隆景は、信玄が東に向かったことを知っても動きませんでした。海千山千の信玄が何を考えているのかわからず罠かもしれないと疑ったのです。しかし武田軍が木曾川を渡るに及んで重大な異変を察知します。信玄の身に何かあったのではという噂は瞬く間に広がり各方面に衝撃を与えます。信玄の盟友松永久秀と足利義秋には寝耳に水であり、断りなく撤退した信玄に激怒しますが後の祭りで彼らは大和で完全に孤立する羽目になりました。弱気になった義秋は幕府への帰順を提案しますが久秀は拒否、義秋に逃げられぬよう信貴山城に押し込めます。四面楚歌の久秀が目をつけたのは畠山高政でした。幕府方として転戦してきた高政は、将軍義輝が管領職を復活させて自分でなく家格で劣る上杉輝虎に与えようとしたことが不快だったのです。管領という餌に釣られた高政は久秀への合力を決断、元亀4年(1573年)を迎えても情勢はまだまだ予断を許しませんでした。
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