桶狭間後の今川義元 その32
武田が畿内を放棄したのち元号が天正に改元されますが、武田の領国は甲信駿遠三から尾張に及ぶ180万石に上ります。また武田が京へ目を向けている間に着々と関東経略を進めた同盟者北条のそれは200万石を超えます。両者が結束して幕府に刃向かうならば依然として大きな脅威であることは間違いなく、屈服させるには多大な損害を覚悟しなければならないでしょう。そこで将軍足利義輝は武田勝頼に和議を持ち掛けます。
勝頼和睦を拒否
義輝が示した条件は、幕府に帰順するならば甲信を安堵するというものでした。これは勝頼にとって全面的な屈服以外の何物でもなく、亡き父信玄が果たせなかった夢を自らが実現しようという勝頼には到底受け入れられるものではありませんでした。捲土重来を期すために、まずは領国経営と脆弱な武田家中での権力基盤を固めることに専心します。
また義輝は、北条氏政にも帰順を呼び掛けていました。これに対し氏政は、武田との同盟に基づいて行動してはいるが、武田の幕府に対する敵対行為については一切関わりなく与り知らない。北条は古河公方を庇護しており幕府に逆らう意思はないというものでした。氏政はこのまま幕府と武田を争わせ、漁夫の利を得る形で版図を広げるつもりだったのです。
八上城の戦い
別所長治の攻撃を受けた八上城の波多野秀治は直ちに救援を幕府に要請、これを受けて義輝は和田惟政を出陣させますが、惟政が数掛山城に入ると八上城を脱出した秀治が落ち延びてきました。背後を但馬の山名祐豊に襲われ抗しきれなかったのです。惟政は城の奪還に向け明智光秀を先陣に攻め立てますが、堅固な要害である八上城を落とすことができず数掛山城に退き、丹波の戦線は膠着します。
義秋出奔
いっぽうで義輝は小早川隆景に岸和田城攻略を命じていました。小うるさく策略に長けた松永久秀を放置するのは危険と判断していたのです。隆景は力攻めはせず、陣城を築いて長期戦の構えを見せます。また、日本有数の傭兵集団と言える根来衆・雑賀衆が畠山氏と親密だったことからその向背を警戒し、本願寺顕如を通して懐柔していたのです。そのため畠山高政が期待していた彼らの来援は一向に現れず、局面を打開できぬまま籠城は限界に近づいていました。八方塞がりに陥った久秀と高政は海路土佐へ落ちることを決めますが、この動きを知った足利義秋は幕府軍への投降を決意、義秋に同情的だった畠山秋高の手引きで久秀らの脱出に伴う混乱に乗じ城から逃亡して隆景に保護されます。義秋は兄義輝に詫びを入れて身の安全を保障してもらおうと望んでいたのですが、隆景の思惑は別のところにありました。これは掌中の珠のようなものであり、義輝の後継者が確定していない現状では将来の利用価値は計り知れません。そのため隆景は義秋に、京に戻れば命はないと諭して安芸へ逃れるよう勧めます。というよりも、これは半ば脅迫のようなものであり、囚われの身である義秋には逆らうことはできなかったのです。
久秀土佐へ逃亡
一部雑賀衆の協力で海路土佐を目指した久秀らですが、高政は途中遭難して行方知れずとなります。ただ、土佐行きに反対した弟政尚は岩室城に逃れたため、畠山氏は命脈を保つことになります。久秀はなんとか土佐に到着して長宗我部元親に保護されます。
いっぽう隆景は、岸和田城を落としたものの久秀や義秋は海路逃亡した模様と義輝に報告します。これは義輝にとって不本意なものでした。義輝は久秀を能吏として高く評価しており、できれば幕下に復帰させたいところですが、それが叶わないならば危険な存在ですから亡き者にするしかないと考えていました。義秋も実弟であるからこそ手元に置いておかない限り敵方に利用されるだけです。その二人とも取り逃がしたことは痛恨事であり、義輝の心中は穏やかではありませんでした。
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