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桶狭間後の今川義元 その31

2023年11月19日

畠山高政の合力によって窮地を脱した松永久秀ですが、周囲を取り巻く情勢は厳しいものでした。別所長治はその勢いを失い大和は四面楚歌の状態です。宇喜多直家こそ備前制圧を果たし、さらに勢力を伸ばそうと意気軒高でしたが、畿内進出を求めるのは無理があります。そこで久秀は、足利義秋にはこれまで通り幕府に対しての強硬姿勢を貫き武田勝頼に上洛を促しながらも、何らかの形で幕府に恭順することを視野に入れ始めていました。

久秀と長宗我部の連携
三好義継は幕府に降ったことによって阿波一国を安堵され、讃岐はほぼ毛利の支配下に置かれました。土佐統一を目前にして阿波に食指を伸ばしていた長宗我部元親はこれに不満だったので、久秀は義秋に「四国は切り取り次第」との墨付きを出させて引き込むことに成功します。これによって四国は幕府方の毛利・三好対長宗我部という構図になるのです。また久秀は毛利を牽制すべく大友宗麟にも誘いの手を伸ばします。しかし将軍義輝の斡旋で毛利と和睦して以降九州北部大半を制圧していた大友氏は元来幕府との関係が緊密であり、うまくいきませんでした。宗麟としては上方の情勢に左右されず、九州全土平定に邁進するのが上策と判断したのです。

武田と北条の軋轢
安房の里見義弘を屈服させた北条氏政にとって、残る難敵は常陸の佐竹義重だけでした。信玄の要請で信濃に出兵した氏政の弟氏邦は越後勢の関東進出に備えて一度は上野に退いたものの、事実上上杉との和睦が成ったことから佐久地方の領国化を進めており、これは氏政も承知していました。春日虎綱の戦死後北信を管轄していた武田信豊は、この動きを背信行為として抗議します。氏政は氏邦の一存によるものとして陳謝しますが、氏邦に佐久から手を引くよう命じはしませんでした。信玄の死によって苦しい立場にある武田が北条との対決に踏み出すことは不可能と見たのです。佐久を関東平定後の信濃進出における橋頭堡にすることを氏政は考えていました。この問題は大きな火種となって残ることになります。

久秀大和を放棄
信玄の死を確信した義輝は武田の反攻はないと判断し、まずは久秀を屈服させて足元を固めるべく徳川家康を大和に向かわせ、明智光秀にも兵5千を与えて南下させます。家康が飯盛山城に入ると摂津の小早川隆景も呼応して出陣、信貴山城に迫ります。籠城の構えを見せていた久秀は、光秀が多聞山城を落として大和郡山に至ったという報に接すると防戦は困難と判断、義秋を伴って畠山高政の岸和田城に逃れることに決めます。筒井城の筒井順慶が久秀の退路を断つべく立ち上がった時には、すでに信貴山城を退転していました。危地を逃れた久秀ですが、本領大和を失ったことで窮地に立たされたことになります。

山名反幕府方へ
畿内進出の意欲を挫かれた別所長治は宇喜多直家との連携を強化し、これを毛利に対する防波堤とすることで時間を稼ぎ京北西の出入り口に当たる丹波制圧を目論みます。丹波を押さえる波多野秀治は長治の誘いに応じなかったため、長治は但馬の山名祐豊に共闘を申し出ます。かつては「六分の一殿」と呼ばれるほどの強勢を誇った山名氏も没落し但馬をかろうじて確保する有様でしたが、これを祐豊は勢力挽回の好機と捉えて受諾します。祐豊と長治で丹波を奪取し、備前の直家が美作を確保することで予想される毛利の東進を防ごうとの思惑だったのです。

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戦国時代

Posted by hiro