桶狭間後の今川義元 その38
奥三河からの牽制が予想以上の効果を上げ、労せずして武田軍を尾張から撤退させた徳川家康は、もはや武田の頽勢は揺るがないと判断し三河回復を急ぎませんでした。武田から雪崩を打って離れた国衆を完全に掌握して尾張の領国化を進めることが先決と考えたのです。
北条の日和見
小山田信茂ら郡内衆が上杉謙信に降ったことで早期の甲府奪還は困難と判断した武田勝頼は、駿府にとどまって局面の打開を図ります。こうなっては名目上同盟関係にある北条をなんとかして対上杉に参戦させるほかありません。そこで勝頼は北条氏政に新たな婚姻関係を結ぶことでの関係強化を持ち掛けますが、これに対する氏政の回答は驚くべきものでした。婚姻については異存はないが、加えて佐久地方を割譲しろと言うのです。これに激怒した勝頼は、もはや北条頼み難しと独力で謙信と対決する覚悟を決めて先ずは奥三河からの脅威を取り除くため二俣城に向かいます。
謙信急死
二俣城に入った勝頼は、稲葉一鉄率いる奥三河衆に南下の気配がないと見て取ると高遠城に転進します。この動きに勝頼の決戦志向を感じ取った謙信は、受けて立つことを決め出陣を号令したその日に突然倒れ、結局人事不省に陥ったまま回復せず世を去ることになります。当然のこと出陣は沙汰止みになりましたが、謙信の急死は家中はおろか、天下の情勢に大きな波紋を投げかけることになります。
越後勢の撤退
甲府まで落とした上杉軍ですが、それは謙信あってこそのものであり、謙信亡き後さらなる攻勢をかけることが可能と考えるものは家中に皆無でした。確かに謙信の養子景勝は後継者と認知されてはいましたが、その出自は上田長尾家にあり実父政景はかつて謙信と越後守護代をめぐって争った間柄です。また越後に亡命して謙信に関東管領職を譲った上杉憲政が、その後謙信が関東から手を引いたことを快く思っていないのは周知の事実です。さらに謙信のカリスマがあってこそ独立心の強い越後国衆を糾合できていたことを考えると、これらの要因が絡み合って国内が乱れる可能性があります。ここは国内を固めるべきと判断した重臣斎藤朝信に景勝は同意、越後に帰国することになります。
勝頼甲府を回復
高遠城に入った勝頼を待っていた知らせは予期せぬ上杉軍の北上でした。異変を察知した勝頼は海津城の従弟信豊に迎撃を命じますが、勝頼がどれほど急進しようと手遅れと判断した信豊は単独で上杉軍と当たるリスクを回避して出陣しませんでした。実際勝頼は上杉軍追撃よりも甲府回復を優先したため信豊の読みは正解だったことになり、このことが良好だった二人の関係に影を落とすことになります。上杉に降っていた小山田信茂は、勝頼の接近を知ると何ら抵抗せず服従、降伏は信勝の安全保障が目的だったと弁明します。いたずらに敵を増やすべきでないと考えた勝頼は不問に付しますが、内心には穴山信君の変節もあって親族ですら信が置けないという危機感が増幅していました。
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