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海道一から天下一へ その2

長宗我部元親の攻勢を受けた讃岐の荒木村重と伊予の池田勝正は幕府に救援を要請します。四国入りして日の浅い彼らは国内を掌握できず、元親に対抗するのは不可能だったのです。しかし足利義昭擁立派と反対派がせめぎ合う幕府が迅速に対処できるはずもなく、元親がかねてから義昭と通じていることもあって両派の綱引きは激化します。

義昭14代将軍へ
決着を見ない将軍継嗣問題に対して正親町天皇が動きます。将軍空位が長く続くと終息に近づいたかに見えた乱世に逆戻りしかねないと懸念を示したのです。これによって義昭擁立派が勢いを増し、遂に義昭を将軍に就けることが決まります。これに反対する徳川家康は京を辞して三河に下向、近衛前久・信尹父子も同道します。家康としては朝敵とされる可能性を考慮すると畿内で事を構えるのは不利であり、また毛利と明智の連携に備えるためにも本領に退くのが得策と判断したのです。また将軍義輝直轄軍を率いていた前田利家も家康と行動を共にすることになり、これによって家康は新たに1万5千の精兵を傘下に加えるのです。

毛利上洛の途へ
畿内の情勢変化に義昭は小躍りし、朝廷に対して安芸への勅使下向は無用とし上洛して将軍宣下を受ける意思を表明します。上洛に慎重だった小早川隆景も徳川家康が京を引き払ったことを受けて同意し、毛利輝元は大軍を率いての上洛を号令します。当初輝元は自らは陸路山陽道を上るいっぽうで義昭には隆景とともに海路堺に上陸させるつもりでしたが、義昭は将軍たる者その威光を見せつけながら堂々と上洛すべきとしてこれを拒否、2万5千の軍勢で山陽道を進むことになります。その途上においても義昭は自らを援けるため参集するよう各地に檄を飛ばします。かねてから意を通じていた明智光秀は満を持して出陣を下知、東から京を目指すのです。

家康の戦略
家康の下野は政争に敗れたためと世間は認識していました。そのため義昭と輝元が上洛して天下を掌握するのは既定路線と考えられたのです。しかし家康はかねてからこういった状況をも想定したうえでの外交を展開しており、それを看過するつもりはありませんでした。輝元・光秀と対峙するには後方の安全保障が不可欠です。そこで家康は同盟強化のため北条氏直の妹を嫡男信康の正室に迎えることになります。これによって氏直は家康の婿であって信康の義兄という関係になります。また上杉景勝にも長女亀姫の輿入れを働きかけて自陣営に引き込もうと画策します。さらに宇喜多直家の病死後、幼少の嫡男秀家を補佐する叔父忠家に毛利陣営からの離脱を呼び掛けるなど、その調略は活発なものでした。予想される光秀の上洛に対しては、事実上西濃を押える稲葉一鉄・氏家直昌の離反を警戒し、彼らの旧主筋にあたる斎藤利治を犬山城に配して牽制、拡張した佐和山城を石川数正に託します。数正は入京した毛利軍と西進する明智軍の双方に備えるという大役を任されたのです。

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戦国時代

Posted by hiro