桶狭間後の今川義元 その44
天正8年(1580年)春、武田勝頼は1万5千を率いて出陣します。三河回復のため電光石火の速さで岡崎を落とすことを目標に、これを遮るであろう徳川家康を一網打尽にすることを念頭に置いていました。
長篠城包囲
奥三河に現れた勝頼は、地形変化の境目に当たり交通の要衝である長篠城を攻めます。豊川と宇連川の合流点に位置する断崖絶壁上に築かれた要害である長篠城を力攻めすると損害も大きいと判断した勝頼は兵糧攻めを選択しますが、これは家康が救援に駆けつけた場合に備えて兵力を温存したいという思惑がありました。城主奥平信昌は家康の来援を待って死守することを決断、僅かな兵での籠城となります。
家康の出陣と勝頼の機動
予てから来るべき勝頼との決戦に備えて大量の鉄砲弾薬を調達していた家康は、勝頼の長篠城包囲を知ると即時使用可能な鉄砲をかき集めて出陣します。それでもその数は3000丁に及ぶ異例の多さでした。
いっぽう家康の出陣を知った勝頼は、美濃方面に幕府軍の動きがないと見て取ると長篠城の包囲を解き全軍で伊奈街道を南下、野田城には目もくれず素通りして一宮に至ります。家康の迅速な対応を受けて勝頼は、これを野戦で撃破する決意を固めたのです。
家康が御油で吉田城の酒井忠次ら東三河衆を糾合したころには勝頼勢南下の報はもたらされ、家康は迎撃策を講じます。武田の得意とする機動戦に巻き込まれず、防御に適した地形を利用し誘致して火力をもって圧倒する算段でした。そこで穂ノ原を決戦場と定め、後背地である赤塚山に本陣を置き山麓に布陣することにします。戦意旺盛な勝頼が必ず総攻撃をかけてくると踏んでのものでした。
穂ノ原での決戦
家康が赤塚山を背に布陣したことを知った勝頼は、砥鹿神社に本陣を構えて対峙します。両軍の中間にあたる穂ノ原は若干の起伏はあるものの平野と言える地形で、東西を隔てる佐奈川もほとんど水無川であることから、機動戦を得意とする勝頼にとってはうってつけの戦場と映りました。数では劣るとはいえ野戦に絶対の自信を持つ武田軍に慎重論はなく、軍議は速戦即決に傾きます。物見の報告で敵が尋常ではない数の馬防柵を築いていることが分かったものの、特に懸念を抱く向きはなかったのです。
しかし家康の作戦は巧妙なものでした。佐奈川に正対して幾重にも馬防柵を築きましたが、右翼を山地に沿う形で薄くしていました。機動力を生かした迂回攻撃が得意な武田軍が前線を突破できない場合、右翼に回り込もうとするよう誘導する意図があったのです。
鶴翼で押し出した武田軍は佐奈川を渡ると突撃を開始、激しい攻防となります。武田軍の猛攻で一部の馬防柵は突破されますが、家康が用意した鉄砲の数は予想をはるかに上回るものであり、その火力の前に武田の騎馬武者は次々と斃れます。勝頼には信じ難い光景でしたが、それでも左翼は弓なりに伸びて押し込んでいるようです。そこで勝頼は勝機をここに見い出し、中軍の原昌胤に左翼を扶けつつ迂回して赤塚山に突進するよう命じます。しかし、そこに控えていたのは酒井忠次率いる精鋭でした。昌胤と忠次が鎬を削る間、中央と右翼の武田軍は甚大な損害を被って遂に崩壊、退却を図ります。機は熟したと考えた家康は追撃を開始、戦場は凄惨な掃討戦となります。退路を断たれた昌胤勢は包囲されて全滅、他にも土屋昌続・真田信綱・昌輝兄弟らが討死します。強気な勝頼もさすがに戦闘継続は無理と判断、馬廻のみに守られ撤退することになります。
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