今川義元≒大内義興
妄想を披露する前に、今川義元が乱世を収束させ天下を統一することができたのかどうかについて結論を下してしまいましょう。答えはノーです。彼にとって最大の拠り所は足利一門で将軍位継承権を持つ吉良氏の分家という家格の高さです。上方を制圧して室町幕府を立て直しつつ将軍を傀儡化し、自らは副将軍として天下に号令することはできたでしょう。しかしそれだけで戦国の世を終わらせることは不可能です。
豊臣秀吉が発した惣無事令は、従わないものを誅滅できる圧倒的な武力を手にしたからこそのものです。天正年間には有力な戦国大名は群立していた諸勢力を併吞し、領国経営も一元支配できるものに成熟していましたが、永禄年間ではそのような大勢力に収斂されていません。戦国大名とはいっても実質的には国人領主連合の盟主にすぎない例も多く、強力に統制できないわけです。また複雑に絡み合う利害関係を調整して全て丸く収めるなど不可能です。天正年間でさえ有力大名は東北に伊達・蘆名・最上、関東に北条・佐竹、甲信の武田、北陸に上杉、東海の徳川、中国の毛利、四国には長曾我部、九州に大友・龍造寺・島津といます。これらの勢力に収斂されていない永禄期では利害関係は比較にならないほど複雑ですからね。確かに駿遠三に加え尾張と畿内を制圧した義元には10万規模の動員力はあったと思いますが、全兵力を一方面に向けることは不可能です。否応なしに屈服させるだけの力はなかったと思われます。
義元が内政と外交に優れた手腕を持っていたことは認めますが、武将としてはどうでしょう? 彼には鮮やかな勝ち戦がこれといってないですよね。花倉の乱での勝利は北条氏綱の支援によるところが大きく、三河制圧は殆ど太原雪斎の功績です。駿東奪還も戦で駆逐したというよりも外交上の勝利というべきものです。同盟相手の武田信玄と北条氏康、そして彼らの宿敵上杉謙信に比べると一段落ちると言わざるを得ません。彼が「海道一の弓取り」と謳われたのは、駿遠三を支配したという事実に対してのものにすぎないのではないでしょうか。つまり優秀な政治家ではあったが名将とは言えないと。
彼には雪斎という師がおり、家督相続前に京の禅寺で修行していることから軍略にも長けていたとされていますが、そうだったとしても実戦で発揮できなければ机上の空論でしかありません。尾張制圧を第一義と考えるならば、周辺諸兵力に対して外交工作を行った形跡がないのは頷けます。先ずは織田信長を倒してから、上洛への算段はその後と。とは言え彼が軍略家ならば、せめて犬山城の織田信清を調略しておくべきだったでしょうね。尾張を任せることを餌にして、信長が清洲城から打って出るならば背後を突かせるくらいの根回しはできたはずです。桶狭間での敗戦は油断といくつかの偶然の産物だったかもしれませんが、歴史という大きな見地から考えるとやはり必然だったと思えるのです。
義元が上洛して天下を握ったにせよ、彼にできたことは歴史的役割を終えかかった室町幕府を一時的に立て直しただけで、大航海時代の波が日本にも押し寄せて激変していく情勢に対応していく器量はなかったと思います。守旧的で進取の気性に欠けていた彼には荷が重すぎ、やはり時代が求めていたのは信長のような革命児だったということでしょうか。ただ信長は桶狭間で敗死し秀吉は世に出ていない以上、戦国の世を終わらせたのは誰だったのか? 義元没後に独立を果たした徳川家康が、その目の黒いうちに日本の過半を制することができれば、史実よりも遅れて新たな幕府の成立までこぎつけられたかもしれませんが、できていなかったら? 遅すぎたと言われる伊達政宗の登場が、結果的に決して遅くはなかったかもしれません。また太平の世の到来で日の目を見ることなく埋もれてしまった才能が表舞台に現れて、歴史を変えていた可能性も大いにありますね。いずれにせよ義元が果たした歴史的役割は、大内義興と大して変わらないものだったでしょう。
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