桶狭間後の今川義元 その43
上杉謙信の死は、彼を非常に頼みにしていた将軍足利義輝にとって痛手でしたが、後継者景勝も父同様幕府に忠義を尽くすものと信じて疑っていませんでした。越後に撤退したことにも理解を示したものの、国内の反乱を理由に再び武田に圧力を加えると期待していた義輝の思惑通り動かないことに一抹の不安を感じたのです。そこで景勝を従四位下左近衛少将に任じて信頼の証とするいっぽうで、かねてから幕府に接近の意思を示している北条の取り込みに向けて、交渉を具体化させていくことになります。
上杉憲政の出奔
関東復帰を望む上杉憲政は、上杉と武田の和睦が成ったことで景勝が関東への進出を図るものと期待していましたが、景勝は国内の統制強化に専心して一向に動こうとしませんでした。これに業を煮やした憲政は、景勝に批判的な国衆を糾合して対抗勢力を築こうと画策します。しかし、かつての関東管領という名目しか拠り所のない憲政には求心力がなく、また自らの家臣には北条に近いものも多いことからこの動きは忽ち露見します。立場を失った憲政は越後を出奔、海津城の武田信豊を頼ることになります。
信豊に芽生える邪心
信豊は、これまで一貫して従兄弟勝頼を支える姿勢を取っていましたが、上杉が越後に撤退した際の対応から齟齬が生じて二人には隙間風が吹き始めていました。信玄時代の旧臣には信豊の父信繫を慕うものが依然多く、また信濃の国衆には飽くまで幕府との対決を優先する勝頼に対して本領を軽んじて顧みないという不満が鬱積していたのです。彼らの間には勝頼では武田はもたないという声が強くなり、代わりに信豊を立てようという動きが出始めます。信豊も嫡男を景勝の養子として送り込んだことで上杉との太いパイプができ、さらに使い方によっては大きな武器に成り得る憲政が転がり込むに及んで自立するという選択肢を考え始め、勝頼への信義との狭間で葛藤することになります。
甲相手切へ
いっぽう将軍義輝は北条氏政を対武田に参戦させるため、氏政に佐竹義重との和睦を持ち掛けます。義重の激しい抵抗もあって常陸経略が遅々として進まない状況を見透かした義輝の誘いに氏政も乗りますが、徹底して反北条を貫いてきた義重が難色を示します。しかし南下の意欲を隠そうとしない伊達輝宗の動きには懸念があり、もし北条との二正面作戦を強いられると厳しい戦になることを蘆名盛氏に諭され結局同意、こうして和睦交渉は進展しますが、義輝は氏政に武田との手切の担保として長らく伊豆に幽閉されている今川義元の解放を求めることになります。
勝頼の反攻策
和睦交渉を通して景勝に南下の意志はないと確信した勝頼は、幕府に対する本格的な反転攻勢を企画します。それは幕府側に寝返った奥三河衆を降して二俣城への圧力を除き、そのまま一気に岡崎を目指すというものでした。三河を奪還して再度上洛への意欲を内外に知らしめようと意気軒昂だったのです。
武田勝頼 試される戦国大名の「器量」 (中世から近世へ) [ 丸島 和洋 ]価格:2090円 (2024/3/3 14:52時点) 感想(0件) |
ディスカッション
コメント一覧
まだ、コメントがありません