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桶狭間後の今川義元 その45

武田勝頼に快勝した徳川家康の武名はさらに上がり、幕府を支える第一人者の地位を不動のものにします。家康は遠江・駿河の武田領への攻勢も本格化させて着実に侵食していきますが、勝頼は救援できませんでした。それほど穂ノ原で被った損害は大きかったのです。

北条、幕府に帰順
勝頼の敗戦を受けて真っ先に反応したのが北条氏政でした。かねてより進めていた幕府との交渉を加速させ、対武田への参戦を決めたのです。氏政は今川義元の解放にも同意、佐竹との和睦も成立します。また将軍足利義輝は氏政を正式に関東管領に任じます。これは上杉謙信に与えたものの上杉は関東への影響力を失っており、名ばかりのものと化している現状を鑑みてのものでした。こうして氏政は関東完全制覇を棚上げして西へ向かうことになります。

信豊自立へ
信濃では、これまで燻っていた武田信豊を擁しての自立を図る動きがさらに活発化します。特に熱心に動いたのが、兄二人が穂ノ原で討死したため復姓して家督を継いだ真田昌幸でした。昌幸は後年、次男源二郎に信豊の父にあやかって信繫と名付けるほどであり、武田の滅亡を避けるには信豊を立てるしかないと決意したのです。穂ノ原での敗戦に危機感を覚えた信豊も、遂に昌幸らの懇願を受け入れます。信豊は昌幸に甲信の安堵を条件に幕府に帰順すること、及び周辺諸勢力との折衝を命じて自立に向けた準備を急ぐことになるのです。

北条、駿河に出陣
昌幸は幕府との交渉に当たるいっぽうで、対北条の折衝に上杉憲政を担ぎ出そうと考えます。憲政の旧臣には北条傘下にあるものも多いことから、その影響力に期待したのです。憲政は当初、信豊離反の知らせを土産に勝頼を頼ろうと考えていましたが、このままでは武田の滅亡は必至であり巻き添えになること、局面打開まで隠忍自重すれば関東管領復帰の目もあると昌幸に諭されて翻意します。
憲政は北条方の上野衆を束ねる大道寺政繫に対し彼らを通して信豊の意向を伝えて共闘を打診、この報はすぐに小田原の氏政にもたらされます。家督を嫡男氏直に譲った直後だった氏政は上野方面の安全が担保されたと判断、直ちに新当主氏直が大軍を率いて出陣することになります。

薩埵山の戦い
北条の大軍が富士川を越えたとの知らせは武田方に衝撃を与えます。家康に対して守勢に回っていた武田信廉は、小山城の大熊朝秀と諏訪原城の今福虎孝に迎撃を命じるとともに弟一条信龍を大将として出陣させます。信廉は薩埵峠を扼して食い止めるつもりでしたが、武田軍が到着した時に薩埵山はすでに北条の旗印で埋め尽くされており、信龍は興津川を隔てた横山城に入って対峙することになります。
圧倒的な大軍と地の利を得た氏直でしたが、ここから積極的な攻勢に出ませんでした。武田の頽勢が明らかとなった今、雲霞の如き大軍の威容をもって圧すれば士気は阻喪し瓦解するとの氏政の考えによるものでした。しかし氏直を驚かせたのは、勝頼が身延路を南下し富士見峠を越えたという知らせでした。
このころ迫りくる幕府軍の襲来に対し、より防御に優れた本拠として新府城の築城に着手していた勝頼は、駿河の変事を聞くとすぐさま軍勢を動員して急行、その機動力が未だ健在であることを示したのです。しかし北信の信豊は上杉に不穏な動きありと称して応じなかったこともあり、その兵は1万に満たないものでした。
勝頼自身の出馬は武田方の士気を大いに高めることになり氏直は何ら有効な手を打てず、また勝頼も4万もの大軍を前にしてはさすがに安易に動けないことになり、この対陣は長期戦となるのです。

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戦国時代

Posted by hiro