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斎藤一は左利き?だったかも…

9月28日は斎藤一の命日です。新選組三番隊組長として京に剣名を轟かせた斎藤は天寿を全うした数少ない主要幹部の一人ですが、手記や回想録を残していないため謎の多い人物です。

出生地ははっきりしませんが、父山口右助は播磨明石藩出身であり、その後江戸で旗本則定鈴木家に仕えたとされているので播磨か江戸のどちらかということになるでしょう。修めた流派も定かでなく、一刀流・溝口派一刀流・山口流・無外流・津田一伝流・聖徳太子流という説があります。斎藤が19歳の時、江戸で旗本と喧嘩して斬ってしまい逐電し、父の友人で京の剣術道場主吉田某に匿われて師範代を務めたとされていますが、この吉田某は1895年(明治28年)に行われた第1回武徳祭大演武会で精錬証を受けた聖徳太子流の吉田勝見と推定できるため、京で聖徳太子流を学んだことは間違いないでしょう。剣客が複数の流派を修めるのは珍しいことではないですし、免許皆伝を受けてもさらなる高みを目指して他流派でも皆伝を得る例も少なくありませんが、おそらく斎藤の興味はそこにはなかったか或いはどの流派にも飽き足らずに独自の実戦的な剣法を追及していたのではないでしょうか。江戸においては天然理心流の試衛館と交流があったように、様々な道場に出入りしていたものと考えられます。斎藤には明治維新後の警視庁時代における撃剣大会の試合結果が残っているにもかかわらず流派の記載がないことが、それを物語っているような気がするのです。皆伝はおろか目録さえ受けていない引け目よりむしろ、自分の剣は流派の枠に収まるものではなく自分流であることを誇るような気概を感じます。

また斎藤には左利きだったという説があり、映像作品でもそれに準じて右腰に帯刀している例がありますが、これはどうでしょう? 刀を左腰に差すのは基本中の基本であり、そのため右手で抜刀するのは利き手がどちらかにかかわらず当たり前のこととして教わり修練するはずです。例外はいたかもしれませんが、少なくとも名を残した剣客には皆無です。ただし左利きであることを生かして左手でも抜刀できる修練を積んでいた可能性はあります。しかし左腰に帯刀している以上左手では抜けず(脇差ならばできるかもしれませんが)意味があるとは思えませんが、そうとも言い切れないんですよね。恰好なシチュエーションがあるのです。

それは正座している場合です。座るときには当然刀を外しますが、通常右側に置きます。抜き打ちできないことで敵意のないことを示すわけです。左手で抜刀できる側からしたならば、これは絶好機に他なりませんよね。斎藤は内部粛清や暗殺といった汚れ仕事に多く関わり、新選組で最も人を斬った人物とも言われます。もしかしたら、この特技を如何なく発揮するような場面があったかもしれません。

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江戸時代

Posted by hiro