海道一から天下一へ その21
上杉勢が庄内に向け出陣したことを知った北条は、遂に6万に及ぶ大軍を催します。当主氏直自ら総大将となり、長年手こずらされてきた佐竹を今度こそ叩きのめす決意でした。
信康、北条に助勢
氏直の出陣を知った徳川信康は、早速これに助勢するため出陣しようとします。信康にとって氏直は義弟であり、その父氏政は舅です。北条との同盟は強固なものであり、日頃の親交もあって何の疑問も抱かなかったのです。それに何より信康は戦場に飢えていました。長らく自慢の武勇を発揮する場がなかったことが、迂闊な行動に走らせる原動力になっていたのです。しかし家老の平岩親吉は家康の許可を得ない出陣に強硬に反対して諫めます。今川の人質時代から家康に従い信頼の厚い親吉は、家康が信康の短慮を危惧していることを承知しており、ここでの独断専行はのっぴきならない事態を招くと直感していました。そこでまずは家康に伺いを立てるとして弟康長を派遣、信康を思いとどませることに成功しますが、堪え性のない信康は待てませんでした。自身の馬廻のみを率いて駿府を発ってしまったのです。驚愕した親吉は僅かな手勢のままの信康を放置するわけにはいかず、急ぎ後を追うことになります。
上杉、庄内を掌握
上杉軍接近の報に対して庄内を預かる最上方の東禅寺義長は、大浦城を出てこれを十五里ヶ原で迎撃します。しかし義長に反発していた庄内国衆の反応は鈍く、思ったほどの兵力は集まりませんでした。それでも義長は果敢に打って出、戦は激しいものとなります。しかし義長と弟勝正が相次いで討死すると東禅寺勢は大浦城へ敗走します。勢いに乗った本庄繫長はさらに北上、池田盛周の朝日山城を包囲して降します。伊達と相対していた最上義光が軍を返して現れたことで進撃はここまでとなりますが、大宝寺義勝が大浦城に復帰を果たして上杉は庄内奪還に成功します。。
筑波山の対陣
いっぽうの北条は関東諸将を糾合しながら北進して佐竹義重の本拠太田城を目指していましたが、小田城の小田氏治から佐竹軍が現れたとの注進を受けて驚きます。佐竹が伊達と対峙している虚を突いて一気に屠ってしまおうという目論み通りに事は運ばなかったのです。これは最上の退却に乗じて追撃を図る伊達勢に、その後方から痛撃を加えようとした佐竹に捕らわれた伊達側に、北条が上杉と連携して常陸に攻め込むという噂がすでに広まっていたことが原因で、過去の因縁から北条に信を置かない義重はこれを事実と捉えて急ぎ反転したのです。北条陣営では構わず太田城を目指すか小田城に向かうか、あるいは軍勢を二手に分けるかで紛糾した結果、慎重な北条氏直は全軍を小田城に向けます。数における圧倒的優勢を手放すべきではないと判断したのです。この間に佐竹勢は筑波山に陣を整え待ち構えます。氏直は小田城が平城であり、防御に難があることを逆手にとり誘引しての包囲殲滅を狙って誘いをかけますが佐竹勢はこれに乗らず、戦況は膠着します。
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