喧嘩屋マーティンとスタインブレナー
1960年代後半から低迷期に入ったニューヨーク・ヤンキースは73年にジョージ・スタインブレナーがチームを買収、豊富な資金力に物を言わせてスター選手をかき集める一方、75年にはビリー・マーティンを監督に迎えます。
現役時代ビリー・ザ・キッドと呼ばれ、闘争心剝き出しの激しいプレーでヤンキースファンに愛されたマーティンは、気性の激しさと喧嘩早さからフィールド内外で様々なトラブルを起こした問題児でもありました。プロボクサー志望だった彼の乱闘騒ぎは枚挙に暇がないほどです。引退後も性格が丸くなることはなく、率先してチームに活を入れ選手にも勝利への執念と献身を求める武闘派でした。そのため主力選手たちとの衝突を繰り返してダグアウト内は常に緊迫した雰囲気に包まれる有様でしたが、結果的に燻る不満を相手チームを叩きのめすことに向かわせて77年にはワールドシリーズを制覇しますが翌年には解任されてしまいます。スタインブレナーとの関係は常人には理解できないほど奇妙なもので、通算5回も就任と解任を繰り返しています。スタインブレナーも強烈なエゴを持った人でしたから衝突するのは当然としても、何度もよりを戻してはすぐ別れる男女の腐れ縁みたいですよね。
マーティンという人は低迷するチームをV字回復させることに非常に長けた監督で、常に急速なチームの立て直しに成功していますが長くは続かないのです。非常に優れた外科医ではあったが術後の処置は苦手だった、つまりダイナスティーを築ける将器ではなかったわけです。オークランド・アスレティックス監督時代には最下位から一気に2位へ押し上げると、2年目には地区優勝を果たして古巣ヤンキースとリーグ優勝を争うまでになります。この頃マーティンは攻撃でリッキー・ヘンダーソンを縦横無尽に走らせる機動力野球を志向する一方「先発投手は完投すべし」との方針を掲げて若い投手陣を発奮させ、実に全試合の半数以上で完投させています。この極端な起用法は酷使による先発投手の壊滅という結果をもたらして頓挫します。時代に逆行するかのような采配は一時的にカンフル剤の役割を果たしてチームを躍進させたものの、すぐに破綻してトレンドには成り得なかったわけです。このことからも彼はすでに古いタイプの指揮官だったと言えるでしょう。現代野球ではセイバーメトリクスの普及でデータ重視に拍車がかかり、マーティンのような闘将タイプは絶滅に瀕した感があります。これも抗えない時代の流れでしょうか。
彼の人となりから必ず連想してしまう人物がいます。以前の記事で取り上げたレオ・ドローチャーです。ともに小柄ながら闘志あふれるプレーでニューヨークのファンに愛されましたが喧嘩早い暴れん坊、スキャンダルも多くフィールド内外で物議を醸す問題児と共通項が多いのです。彼は結局ヤンキースの監督になることはありませんでしたが、その可能性はありました。おそらく「素行の悪さ」が原因で避けられたのでしょう。もしヤンキースがヨギ・ベラの後任にジョニー・キーンでなくドローチャーを選んでいたら、マーティンの登場を待たずして復活を遂げていた気がします。ただ、さほど長期政権にはならなかったでしょうね。どんなにもってもスタインブレナーとぶつかるのは自明の理ですから…
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