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桶狭間後の今川義元 その1

織田信長が桶狭間で討死した後、天下の情勢はどのように移ろったかを考えるにあたって決めておくべきことがあります。それは義元の寿命がどの程度だったかです。調べてみると彼の家系はかなり長命の人が目立つんですよね。そこで父氏親と子氏真の中間をとって65くらいとします。つまり桶狭間から20年は生きたということです。もちろんその前に戦死する可能性はありますが。

上洛へ向けての外交工作
当時室町幕府13代将軍足利義輝と、畿内を中心に強大な勢力を誇る三好長慶は協力関係にありました。将軍権威の復権を目指す義輝が、その政治的立場を強化するために長慶と和睦した結果です。義輝は各地の紛争を調停するなど意欲的に動いていましたが、足利一門でも家格が高い今川の勢力拡大を喜び上洛を促します。義元にとっては渡りに船ですが長慶の出方はわからず、まずは近隣諸勢力を懐柔して上洛への障害を取り除く工作を開始します。
京への道筋を押さえる南近江の六角氏は代々足利将軍家を擁護して長慶と対決してきましたから、義輝の御内書があれば妨害しないはずです。問題は美濃の一色(斎藤)義龍です。美濃守護土岐氏よりも家格が高い一色姓を許されたばかりの義龍は覇気溢れる人物であり、敵に回すと厄介です。長らく美濃と敵対関係にある越前の朝倉ともども、御内書を根拠に上洛への協力を求めます。

周辺諸勢力の動向
義龍は自らがてこずった信長を一気に葬った義元を敵に回して朝倉との二正面作戦を強いられる困難を避け、義元の娘を嫡男龍興に輿入れさせる条件で同盟を結びます。
六角家中では、すでに打診されていた義龍からの和睦提案に対して反対する六角承禎と嫡男義治との対立が起きていましたが、義龍と義元の同盟が成立すると義治派が勢いを増して義元を支持します。いっぽう六角に従属していた北近江の浅井では、自立を目指す賢政(長政)が実権を掌握して朝倉に接近します。

将軍義輝の出奔
このころ三好長慶の領国は畿内を中心に200万石に迫り、全盛期を迎えていました。将軍義輝との和睦が成立し政治的立場が盤石となってからは、その姿勢は守りに転じていきます。いっぽう義輝は長慶の頭越しに諸国へ御内書を発するなど、独自に将軍権力の復活に向けて動いていました。これに危機感を覚えていたのが松永久秀です。義輝が義元に上洛を促したことを知るに至って看過すれば三好政権にとって脅威と判断、長慶の嫡男義継を説得して義輝の廃立を画策し始めます。義輝と対立はしてもあくまで主君と仰いできた長慶が、ここにきて下剋上には踏み切れまいと考え、義継を動かそうとしたわけです。彼らは義輝を追放して一乗院門跡である弟覚慶を還俗させ将軍に立てるよう長慶に訴えますが、覇気を失い始めていた長慶は認めません。もし義元が大軍を率いて上洛しても、我らはれっきとした相伴衆であり管領の役職を代行するものである。敵対すればそれは謀反にあたる。心配には及ばないというのです。長慶の判断を甘いと見た二人は遂に義輝の放逐を決意することになります。
これらの動きを察知した義輝は身の危険を感じて機敏に動きます。僅かな供回りを連れて京を脱出、南近江の六角氏を頼ることになるのです。

義輝清洲城へ
観音寺城に入った義輝ですが、六角家中では親一色(斎藤)派の義治と反対する父承禎との対立が抜差しならないものになっており、これに乗じて自立を目指す北近江浅井賢政に野良田の戦いで敗れたばかりで大きく動揺していました。この不安定な状況を見た義輝は六角頼み難しと判断、義元に保護を求めて清洲城へ向かうのです。

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戦国時代

Posted by hiro