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桶狭間後の今川義元 その2

上洛戦と三好政権の崩壊
労せずして将軍足利義輝を掌中にしたことで、情勢は急速に今川義元有利に傾きます。旗幟を鮮明にしていなかった越前の朝倉義景も義元側につき近畿以東を自陣営に引き込むことに成功、上洛戦の準備を本格化させます。義輝の出奔を知った三好長慶は激怒しますが、すでに病を得ていた彼は飯森山城を動こうとはせず、嫡男義興と松永久秀が主導していくことになります。彼らはまず義輝を廃して一乗院覚慶を還俗させたうえで新将軍に立てようと図ったものの朝廷が許さず頓挫、越後の上杉政虎(謙信)には義輝が義元に奪われたとして協力を呼びかけますが、武田・北条を相手にする政虎は動けません。情勢が著しく不利となる中、彼らをさらに動揺させたのが紀伊に逼塞していた畠山高政でした。義元に呼応して三好の背後を突くべく挙兵したのです。義輝を奉じて観音寺城に進出してきた義元に備えねばならない義興は叔父の実休を派遣しますが久米田の戦いで敗死、長慶の飯森山城も包囲されます。ここに至って挟撃されることを恐れた義興は撤退を決断、全軍で飯森山城を救出した後本拠地阿波に逃れますが、久秀は義元の追撃に備えて飯森山城に籠ります。

義元副将軍となる
ほぼ無傷で義輝を京に復帰させた義元は、飯森山城攻略に松平元康を派遣しますが元康は力攻めでは落とせないと判断、長期戦になります。この攻城戦は半年に及びますが、官僚としての能力を高く評価していた義輝の説得に久秀が応じ、大和を安堵する条件で開城します。この間義元は義輝を補佐して新たな秩序構築に尽力し、有名無実化していた管領職を廃止して将軍親政への道筋をつけます。三好義興には上洛して恭順の意を示すことを条件に阿波・讃岐・淡路を安堵、畠山高政を紀伊・河内守護に復帰させます。義元は国の屋台骨を支えるのはあくまで足利一門であると考えて義輝の将軍権威復活への情熱を頼もしく思っており、自らはナンバーツーとして義輝を支えようと決めていたのです。義輝も最大の功労者で年長でもある義元を敬って厚く遇し、彼を副将軍に任じます。また義輝は自前の兵力を持たないがため、事あるごとに実力者を頼って流れざるを得なかった経験から、新政権の成立が全国の争乱を沈静化させる結果税収が増大することを見越して馬廻衆を拡大させた常備軍の設立に着手する一方、各地の争乱に積極的に介入して乱世の終息を目指すのです。

潜在する火種
将軍義輝と義元の関係は円滑なもので、新政権のスタートは順調なものでした。与力大名を加えれば義元の勢力は300万石を超え、誰も単独では抗しえません。彼を後ろ盾とする将軍義輝は覇気溢れる人物ですが、二人の関係に齟齬は見当たらず、全国に割拠する諸勢力も当面表立って逆らうことはできません。しかしこの時期には兵農分離が進んでおらず、自領を潤そうとするならば対外拡張するしかないのです。つまり農村を直接的に支配する国人領主の発言力が強く、程度の差はあれ戦国大名は彼らの盟主にすぎないということです。これは最も先進的と思われる北条とて例外ではなく、締め付ければ離反を招くこともあります。国人領主を力で抑えることができるほどの大勢力に収斂されるのは後年のことですから、将軍が全国を一元支配できる状況ではなかったのです。
戦乱の世を鎮めることを目標に二人三脚で走り始めた義輝と義元ですが、地方では二人の思惑と別のところで動いていました。次回は各地の動向を見てみましょう。

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戦国時代

Posted by hiro