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桶狭間後の今川義元 その15

将軍足利義輝は当初、浅井氏を滅ぼした松平元康に参陣を命じませんでした。生まれ故郷岡崎城救援に逸って猪突することを心配したのです。幕府直轄軍に美濃衆を加えたその兵力は2万に迫ります。豪気な義輝は武田信玄の実力を評価しつつも決して後れを取るつもりはなかったのです。

岡崎落城
岡崎城総攻めにかかった信玄ですが、本多重次の抵抗は激しく容易には落ちませんでした。しかし多勢に無勢、遂に岡崎城は落城して重次は自刃して果てます。信玄は、さらに刈谷城・岩崎城を落とすものの兵の損耗も少なくありませんでした。義輝はここで信玄は清洲城に向かうと確信して出陣を号令するとともに、犬山城の織田信清に小牧山へ南下するよう命じます。また元康にも後詰の援軍派遣を要請、今度こそ信玄と雌雄を決する覚悟を固めていました。

清洲城の戦い
近江の元康は六角義治を援軍として派遣するとともに、新たに傘下に収めた國友の鉄砲鍛冶充実を図ります。これで堺・根来に続いて主要な鉄砲の産地を抑えたことになり、鉄砲隊の拡充に余念がありませんでした。
いっぽう信玄は清洲城を包囲しましたが幕府軍の南下を知るとこれを解き、五条川を背にすることを避けて南岸に布陣します。これに対し義輝は、信清が小牧山から岩倉に進んだことを知ると清洲城西に本陣を置きますが、これには思惑がありました。彼は武田軍が高速機動を得意とすることを把握しており、それをやるなら城から離れた方角つまり西から行うように誘導したのです。そして土田に細川藤孝率いる別働隊を置いて備えさせました。信清軍が到着する前に信玄が動けば北岸で、動かなければ藤孝に渡河させて南岸で挟撃を目論んでいたのです。
信玄は義輝の思惑通りに動きました。城の東側では城兵に発見され打って出られる可能性があり、渡河するならやはり西と考えました。そこで山県昌景に兵3千を預け夜陰に乗じて渡河させます。鬨の声が聞こえ始めると武田軍の前備え馬場信春も渡河を開始、激戦が始まります。正面と右翼からの圧力を受けた幕府軍は防戦に徹し押されますが、藤孝の別働隊が山県勢の背後を襲うと攻勢に転じ、川を挟んで一進一退となります。昌景の赤備えはさすがに精強で包囲されても俄かに崩れる気配はありません。強行突破を決意した信玄は、自身の馬廻を除く全軍に攻撃を命じ戦線は押し戻されます。幕府軍の前備えが崩れ始めると義輝の直轄軍が動き出し、ほぼ互角の兵力による総力戦となります。ここで目覚ましい活躍をしたのが前田利家で、自慢の長槍を縦横にふるって武田の足軽大将三枝昌貞などを討ち取ります。再び川を挟んでの激闘となり容易に勝敗は決しませんでしたが、昌景がようやく包囲を突破して危地を逃れたことを知った信玄は引鉦を打ちます。信春のみ殿として対岸にとどまると幕府軍も退き始めますが、利家のみは追撃をやめず包囲されかけますが縦横無尽に暴れ回って引き上げます。これまでの戦でかすり傷ひとつ負わなかった信春さえ負傷するほどの激戦でした。信玄は陣を立て直しての波状攻撃を考えていましたが、ここで織田勢が岩倉から南下して接近中との報が入ります。信玄は新手の出現に戦場からの離脱を決断、この戦いは痛み分けに終わりますが、戦国最強と謳われる信玄に真っ向から立ち向かい退却に追い込んだ義輝の評価は大いに上がることになります。織田勢の到着がもっと早ければ信玄は窮地に立たされていたはずです。自前の兵力を持たない時期には発揮できなかった将才を、天下に見せつけることになったのです。

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戦国時代

Posted by hiro